後編:表現の生態系関連イベント「アートを通して考える『マイノリティ』と『市民運動』」
※展覧会「表現の生態系」(2019/10/12-2020/1/13)の関連イベント・「表現の森」の連携シンポジウム(2019/12/1)の後編です。
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中心と周縁−美術館、アートとマイノリティ
山田:先ほどお見せした中心と周縁を示した図ですが、私たちの問題を考える時に、女性と男性、健常者と障がい者などの二項対立で社会を見るのは、わかりにくいし良くないと学問の世界では言われていました。あっちとこっちで2つ並んでいるのではなくて、真ん中と周りみたいなことなのではないか−この種の議論でよく知られているのがエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978年)だと思います。サイードが言っていたのは、東洋と西洋は対立する概念ではなく、西洋という真ん中があり、それ以外のぼんやりしたところを東洋として考えたほうが良い。その後のポストコロニアリズムの論者なども基本的にその方向で議論を進めるわけですが、この時、西洋というのは男性のことで、東洋は女性のことで、真ん中にいるのはヨーロッパの男性だという文化分析の枠組みを構築しました。これは世界を見た時の話で、日本などそれぞれの地域で見た場合も、その地域でまた中心と周縁があります。先ほどサイードが言ったように、世界に広げてみると、アジアに住んでいる人たちはアジア人と言うだけで周縁に来るわけですよね。
資本主義の中で、社会の中で常に周縁に位置する人たちがいて、その人たちはしんどいだけ、排除されるだけで、その人の権利というのはひたすら奪われています。そうした周縁の少数派の人たちの権利をちゃんと守っていこう、彼らの声を無視せず話を聞き、話し合いで社会を運営しようというのが民主主義です。話し合いの中で法律が作られ、権利が守られていきます。民主主義は、理念的にマイノリティの声を聞かなければならないわけですが、その社会的な表現として、市民運動や周縁にいる人たちの権利を守ろうとする人たちは、NPOや民間団体を立ち上げたりして様々な活動をしてきました。その中で今考えられている方法が、アーティストと一緒にやることなんですね。実践をされている方それぞれに考えがありますが、私の考えは、今回あかたさんがハレルワと一緒にやったことは、この図でいうとLGBTを始めとするセクシュアルマイノリティ、周縁にいる人ですよね。一方で、アーツ前橋は、外観からしてシュッとしてますよね。街の真ん中で、この建物のしつらえを作るために相当お金もかかっているだろうし、日本という社会のシステムの中で、中心にあることが想像つきます。
あかた:公立の美術館ですし。
山田:そうそう。そこにアートとセットにすることで、周縁にいる人たちが知らない間に真ん中にくるわけです。それを美術館でまじまじと見ることが、現代美術という文脈だと可能になります。先ほども申し上げましたが、現代美術というのはこのシステムや構造自体をちょっと斜めから見たり、密かに仕掛けを作ったりして内側と外側の関係を壊していくということをやってきました。
例えば、マルセル・デュシャンの作品《泉》(1917年)は、トイレの便器という価値観を美術館の真ん中に置くことで違うものに変えるわけですよね。端にあったものを真ん中に持ってくる事が可能になるのは、現代のアートの文脈の1つだとすると、マイノリティの人たちが知らない間に真ん中の方に行って社会を真ん中から変えていくような、そういう通路やルートを切り開く可能性が現代美術という表現にはあるかもしれないと私は考えています。今回の展覧会も、1つの回路があるのではないでしょうか。あかたさんと一緒にやってきた間々田さんは、この点についてどのように思われますか。
間々田:僕は群馬大学教育学部美術科出身で、男性の格好で今日来ていますが、大学にいる時に女性から男性へ移行しました。その時は、美術を勉強していましたが、自分のセクシュアリティを表現に活かしたくとも怖くて出来ませんでした。アーツ前橋には学生時代からボランティアで関わったりしていましたが、就職してからはアーツ前橋や美術から離れていました。やがてハレルワの活動を始めて、また「表現の生態系」でアーツ前橋や美術と自分の市民活動がアートに結びつくと気づけたというか気づかされました。自分が好きだった美術、でも結局自分のことを表現出来なかった美術、だけどこうしてこの場に加わることが出来たことは、すごく幸せなことだと今思っています。
あかた:おかえりという気持ちですね。私は、もともと全然アートとかやるつもりはありませんでした。ずっと社会活動方面にいたので、今回展覧会に際してワークショップをやって欲しいと突然言われ、ワークショップは得意だからやると言ってハレルワさんと会いました。ワークショップをして、すごくかっこいいものが出来ました。ハレルワは、アートと言うか美術の凄腕集団なので、「私が適当に言ったことが、めちゃくちゃかっこいい横断幕になってる」ということが起こり、それがなんと美術館の壁に飾られました。
最初、出展作家のところに「あかたちかこ+ハレルワ」と書いてあったのも、「あかたちかこが作家のところに載ってる、変なの」と思っていました。知り合いの人たちに「美術の展覧会に出展したんですよ」と言ったら、全員の反応が「あれ?あかたさんって絵とか描くんですか?」というものでした。私は全然絵を描かないので変だなと感じていたのですが、今の山田さんの話を聞いてなるほどなと思いました。
今回横断幕になったのは「ぐんまはすでに虹色である」という言葉です。諸説ありますが虹色はセクシュアルマイノリティのシンボルカラーです。ワークショップの時に、○○を虹色に、日本を虹色に、群馬を虹色にという話が最初ありましたが、「待てよ、もうお前らおるやん。もうすでに虹色やん」と私が言ったことが、ああいう作品になりました。例えば、ハレルワの人たちが居酒屋で酔っ払って「もう群馬って、すでに色んなやつがいるんだよ」と言っていても、ただそれだけで終わりです。でも、美術館の壁に貼ってみたら、そうしたつぶやきを普段全然聞く気もない人たちが来て「ははぁ」みたいな感じで眺めているんですよね。あ、そういうことか、アートってそういう装置だったんだということが、今やっとわかりました。
山田:今の話を受けて吉野さんにお聞きしたいのですが、アートにはそんなに接点がないのではないでしょうか。
吉野:美術館に自ら足を運ぶことは、確かにそんなにないですね。でも、仕事で地方などへ行き、日中時間があるからどうしようかなった時に、大きな都市には美術館が大概あるので、顔を出すことはありました。でも、意識的に芸術がそういった装置になっていると考えたのは、今日が初めてかもしれません。そういう話を聞いて思い出したのが、弁護士の中でも確か神奈川の方で、フラッシュモブをしてみなさんの注意を引いて、メッセージを伝える活動をしている方もいたようです(※1)。何か発信したい時に、弁護士が難しい話をしても伝わらないと思うので、仲介というかむしろ新しいことが生まれるのはすごいですね。
※1 「「表現の自由」が奪われる!? 海老名市・新人議員に路上パフォーマンス「禁止命令」〜「違反者には5万円以下の過料」で市民を恫喝か!?~命令取り消し求め市議と市民が提訴―「海老名駅前自由通路訴訟」 2016.6.16」(取材・記事=青木浩文、Independent Web Journal、2019.1.14アクセス)
根源的な問いを発する人、言葉にならない人たちの語りを引き受けていく人
山田:法律の世界を全然知りませんが、たぶん厳密な世界で、専門性の高い分野なんでしょうね。法律が専門的になるほど市民社会から離れることがあるのではないかと推測しますが、それをわかりやすく市民に伝え、近いものにしていくものにしていく時には、表現が役に立つのではないでしょうか。そのような実感をされたことはありますか?
吉野:法律と聞いてみなさんが想像されるのは「六法全書」がポンとあって、細かい字がいっぱい書いてあるようなことだと思います。憲法のような価値観の中で出来ていくルールがありますが、もっと根源的なところでは「リーガルマインド」という言葉があり、法律家はそれを根幹に据えています。「リーガルマインド」は多義的ですが、素朴に目の前にある物事がおかしいとか、これは間違っていると言わなきゃいけないことがある時に、空気を読まずに言います。その場に応じて、そのことを言わないといけないという発想で全て出来上がっているものなので、実際はみなさんにとって身近であると思います。そういう事を考えていくと、街の中にある美術館などで、身近な存在として情報発信が出来ることは、法律とそんなに遠くないのかなと今日改めて思いました。
山田:「リーガルマインド」の話が出ましたが、憲法や法哲学などの授業を大学で受けて、法律の問いは原理的なものだなと感じました。例えば、「人間にとって善悪とは何か」とか「悪いことは1つの現象だが、それがその人の人格を表し、悪い人であると結びつくのか」など−こういう問の立て方は、アーティストの問いの立て方と似ていると思います。そういう意味で、リーガルマインドもアーティスティックな営みだと思います。でも、法律家とアーティストが一緒にやるとか、法律がアートの世界に入ってくるという実践は、まだ無いような気がします。法律家がする原理的な問いという話ですが、例えば、アレキサンダー大王など歴史上の人物が10万人殺すと英雄になるが、1人を殺すと死刑になりますよね。そういうことを考えることはありますか?
吉野:法律の勉強をする際に、憲法と法哲学を確かに勉強します。法律には、今お話になったような根源的な問いも必ず含まれていると考えています。なぜなら、自分の所で質問と答えを要求されることがたくさんあるからです。身近な生活の中で法律という枠組みができていると、1つの指針というか目印が出来上がっているようなイメージで捉えています。だから、美術館のような場所である人が考える表現がありそのメッセージが伝わった時は、見た人の路線にぴったり来ることもあるだろうし、違うんじゃないかと思う人がいるならば、違うということを表明する。それをやっていくことで、根源的な問いに答える活動につながっているのではないかと感じました。言われてみると、そんなに法律とは遠くないのかもしれないと思います。
あかた:いつも根源的な問いは現場から生まれるし、答えは現場にあると思うので、私は好き好んで児童自立の現場に行っているんだなと思いました。
今井:今までの話を聞きながら、美術館やアーティストというもののあり方と、法を使っているけれども弁護士のあり方の共通点を感じました。美術館に働いていて私が思っていたのは、美術館の役割の1つとして、メディアや新聞記者みたいなところがあるということです。アーティストは1つの作品を通じて何かを伝えますが、その背景には地域やコミュニティのリサーチを通じて作品が立ち上がっていくプロセスがあります。記者の場合は、署名記事もありますが、多くは匿名記事です。それに対して、アーティストは自分の作品として、そのリサーチの結果を自分の語りにしていきます。弁護士と似ているなと思ったのは、山田さんとかあかたさんの活動もそうですけれど、「言葉にならない人たちの語りを引き受けていく人」という役割が大きいなと感じます。表現者としてのアーティストも同じで、たぶん弁護士も「聞いてしまった人たち」なのではないかと思います。自分が聞いてしまった対面している相手の言葉を引き受けながら、自分の表現として社会に広めていくメディアの機能という点では、マイノリティと呼ばれる人たちと一緒にプロジェクトをしていく中で、吉野さんのような立場の弁護士の役割と近しい部分があるのかなと思いました。
山田:なるほど。先ほど私はこの図で例えばあかたさんやハレルワが、アートを通じてこの端にあるLGBTという文脈を真ん中の方で展開する話をしましたけれど、考えてみると弁護士という存在も周縁の声を裁判所という真ん中で展開する人なのかもしれないですね。
吉野:そういう風に切り取ってもらえると、すごくそうだなあと思いますね。私が取り組んでいるような、必ずしも社会では多数にはならない少数の人の声というのは、多数の方からするとうるさいとされているものです。「何、言ってるんだ」とか「別にいいじゃん、どうでも」という反応が大概なんですね。そうした反応の中で法廷へ行くと目の前に私の依頼者がいるわけですから、その人の声を正しいと思って活動し、その人の声を代弁します。伝える相手は裁判官や裁判所ですが、傍聴している人たちもいます。日本の裁判は公開されているので、自由に入れて、自由に弁論が出来る場所です。私たちは、本来そこでメッセージを問いかけている人なんだと気づきました。
当事者が自己表現することの難しさ
山田:先ほど間々田さんから、学生時代は自己表現しにくいと思ったという話がありましたが、それを当時変えようと思ったことはありますか?
間々田:大学の時、「これから男性になるために治療スタートさせます」と先生に伝えました。大学では、作品制作もしていました。学生の中には、自身の当事者性を反映させた作品を作っている人もいました。でも、自分がLGBTに関連したものを作ろうかと考えた時に、自分のことをまだ外に話すのが非常に難しい状況だったんです。本当に身近な仲間たちに話すことは出来ても、作品として作ったとして広く他学年や作品を見に来た人に話すということは、当時は難しかったです。でも、今の時代に自分が学生だったら、出来たかもしれないです。本当にここ数年ですが、卒論でLGBTのことを伝えたくて、当事者ではない子が話を聞きたいと交流会にアクセスしてきました。当事者も自分のことを卒論に書くという状況があるので、今なら出来るかもしれません。
山田:今回の活動を通してアートと出会い直しをして、今後更に深まるかもしれないという印象はありますか?
間々田:展覧会の他にも、秋の木馬まつりのイベントでもプラカードづくりのワークショップを行いました。普段から発信している人はスラスラ言葉が出てくるんですが、それが出てこない人も意外といると感じました。自分が苛立つことや理不尽なことは、もしかしたらSNSで書いているかもしれませんが、大きな紙には描けないことがあるので、それをもっと色んな人が引き出せるようになるといいですね。今の中高生たちが、セクシュアリティの悩みを表現することがもっと学校の中で出来るようにしたいし、サポートしたいなと思います。
あかた:間々田さんに重要なポイントなので伝えておきたいのですが、学生の時には表現出来なかったけれど、今は出来るようになったということですね。その今を作ったのは自分のおかげじゃん。よくやったね。
質疑応答、県内で活動している団体の紹介
山田:それでは、フロアから話を聞きたいと思います。今日のテーマに関連して普段活動されている方もいらっしゃるので、まずはそこからお話いただければと思います。
参加者:はじめまして、「選択的夫婦別姓全国的陳情アクション」に所属しておりますOと申します。紹介の機会を与えてくださって、ありがとうございます。現在、群馬県内のメンバーは3名で、年齢、性別、生活背景なども違い、自分の生活を優先させながらゆるやかに活動しております。この制度の導入には、民法の法改正が必要です。なぜこの活動が緩やかにできているかというと、どこにいても自分が住む地方の議会へA4の紙1枚の陳情書を出すだけで、国会へ意思表示をすることが出来るからです。でも、日本全国、各自治体の独自ルールがありまして、直球で勝負というよりは、地域の政治状況や人の動きを見て試行錯誤しながら動くことが必要になります。はっきり申し上げると、一筋縄でいきません。本当は直球スピード勝負でやりたいというジレンマもありますが、実際に動いて勉強になったこともありました。これまでの活動としては、県議や市議に団体の活動内容の説明をしています。このアクションに関わって感じるのは、これは政治活動というより単純に人との対話だなということです。それは、「こう思っています」、「困っています」、「変わっていったらいいな」、「あなたはどう思いますか」というシンプルなものです。そういう問いかけをした時に、「お前がおかしい」、「クレイジーだ」、「違う」と面と向かって批判されるよりも、「差別なんてされたことがない」とか「めんどくさい」という言葉が返ってきたときが、対話を閉ざされたようで寂しいです。選択であって強制的なものではありません。事務局はマリッジフォーオールジャパンで、勉強会やシンポジウムなどの活動を一緒にしています。このアクションを政争の具にしたり、ブームで終わったりして欲しくないという思いもあります。振り返ると参院選のように、この制度の導入を公約に掲げている政党・政治家が、非難や指示をするだけで解決できるものでもありません。法律などと結びついていますし、様々な状況や、個人の違いもあります。そうした違いを大切にし、個人の自由をもちながら健やかに過ごしたいです。「あなたどうですか」と周りの人と対話をしながら、自分たちが出来る範囲でゆるやかな活動をしておりますので、ご関心がありましたら問い合わせをして欲しいです。ご清聴いただきありがとうございました。
山田:ご紹介ありがとうございました。それでは、ご質問のある方は挙手でお願いします。
新自由主義と資本主義のシステムをいかに利用するか
参加者:今日は飛び込みだったんですが、楽しく聞かせていただきました。山田さんがお話されていた中心と周縁の図についてお尋ねしたいです。私自身は資本主義社会を手強いと思っていて、周縁や他者だったものを取り込んでいくアメーバみたいなイメージをもっています。LGBTや障がい者をかつては排除してきたけれども、最近は大手企業が支援して内面化していく動きもあり、中心と周縁の関係でなくなっていくのではないでしょうか。ただ、その事によって、ある種シンボル化され消費されていく可能性もあると思います。企業や資本の論理にとって都合のいい部分やイメージアップの部分は使われる一方で、国家や企業にとって都合の悪い、例えば在日韓国人排除の空気は未だに強いと感じます。アートが中心と周縁を結びつくツールになりうることは強く感じましたが、使い方を間違えるとプロパガンダになるのではないかということも気になりました。
LGBTやハンセン病患者差別などはダメだが、韓国は嫌いと言ってしまえるという現実が不思議に思いますし、この論理がどこまでも続いていくんだなと感じます。もちろん抗いたいと思っていますが。
山田:非常に重要なご質問で、本当は今日その話もしようとスライドも準備していたので、少しここでお話させていただきます。今ご指摘いただいたのは「新自由主義」の話だと思います。資本主義は、先ほど説明したような形で進んでいたのですが、あの段階はもうだいぶ終りを迎えていて、新しい段階に入っていると言われています。新自由主義という資本主義の1つの形です。それは、これまで以上に中心と周縁の構造を強化し、競争させます。今までは男性だということだけで中心にいられたのですが、競争がどんどん強まっていくと、男性の中にも有能な人とそうでない人もいるといった形で、そこでまた中心と周縁が作られていく。今まで周縁にいた女性やセクシュアルマイノリティや障がい者も、資本主義に役に立つ人はどんどん中心に来てもらおうというものです。アートの世界に新自由主義の流れがあるのは確実だと思います。今まで周縁にいた人を資本家はある意味取り込んで、金儲けの道具につかっていく。その結果、一見今まで端にいた人が中心に来たように見える現象が今あちこちで起こっています。
そういう自由のことを、「経済的自由」といいます。今まで排除された人が権利を得た、でも結局それは資本主義の金儲けのシステムを更に回すために権利を得たという自由のあり方です。
一方で、ルソー以来、近代市民社会を作っていく中で、根幹にあるのは「政治的自由」という考え方で、これは個人の尊厳や基本的人権や生存権といわれる権利です。今私が話した現代美術の可能性の中にはこの2つがあり、このことを私たちは忘れてはならないと思います。端的にいうと、GoogleやFacebookといった大企業がマイノリティを取り込んだら業績が良くなったんです。それは、その人たちの権利を守ろう、基本的人権を守ろうとしているわけではない。そのことをちゃんと知っておく必要があります。一方で、社会の中には、周縁にいる人たちの尊厳や基本的な人権を守ろうという人たちも、ちゃんと存在しています。そうした活動こそ真ん中に来て、美術館などで活躍の機会が得られたらいいなと私は考えています。なので、新自由主義的な流れが世の中にあることは念頭に置いておいて、マイノリティが今美術館に展示されたりテレビに出たりしているのは、はたして金儲けのためなのか、彼らの権利を守るためなのかを分けて考える市民のリテラシーが、今後必要になっていくだろうと思っています。ご指摘の点、今後その辺りは議論していく必要があると思います。
あかた:儲かるという理由で、マイノリティの事を扱う人がたくさん出てきているのを肌で感じていますが、そのこと自体がほころびだと思います。「どうせあたしたち、あんたらのくだらない金儲けに巻き込まれるんでしょ」って言ってもいいけど、それも覚えといた上で「やっぱりあんたらのシステム、無理出始めてるんちゃう?」とか「いつか借りた軒で母屋を乗っ取るからな」ということを、計算づくでやっていくという可能性もあるのではないでしょうか。もちろん、悲しいことを考えるのをやめよということではなく、そういう可能性も私はあると思います。
山田:私が話したことを前提としつつ、新自由主義のシステムさえも利用しつつ社会を変えていこうという意見ですね。ヘイトスピーチの問題などは、全然改善されていません。マイノリティの中でも障がい者は「障害者差別解消法」が制定され(2013年)、LGBTについても俎上に上がってきています。議論がされるテーマと、さらに排除が深まっている部分もあります。このシステムを逆に利用して、何かやっちゃおうと発想するのがアーティストかもしれないですね。間々田さん、その辺りはいかがでしょうか。
間々田:経済的に利用されているという点では、例えば自治体が同性のカップルをパートナーとして認めるようになり、民間の保険やローン会社がそれを受けて保険やローンを組んで受けられるサービスも始まりました。これも新自由主義の部分だと思うんですよね。でも、それがあるおかげで、今まで保険に入れなかったセクシュアルマイノリティのカップルが保険に一緒に入れて、ローンを組めるようになりました。それは必要なことなので、利用することは利用したいです。
吉野:そうやって取り込まれていく中で、普通の人たちに普通の情報として届くというプラスの効果があると思います。そうでないと、法律っていつまでも変わらないのです。選択的夫婦別姓制度の話もありましたが、それも戸籍法が変わらないと出来ません。同性婚の話も、条例や法律が変わらないと合法にはなりません。そういう意味では、多数者をどこかで作らなければならないので、「使われている感」ではなく、それをうまく使っていくというのは有意義なことだと思います。
マイノリティという立場に身を置く
参加者:トークとても面白かったです。ハレルワで活動しています。外から見た勝手な想像なんですが、山田さんと吉野さんは、きっとずっと中心だったのではと感じまして。自分自身も、例えば児童自立支援施設へ行ったら、人の話を聞けて規則正しい生活を最初から送ることができるので中心になるのかもしれないと思いました。この中で私は病気も持っているし、学歴が高いわけでもないし、地方なので周縁なんですよね。お聞きしたいのは、自分がこの分野では中心だが、ここは周縁だと感じる瞬間はありますか?そして、中心とか周縁とか考えなくていい瞬間があるかどうか教えていただきたいです。
吉野:私、全然泳げないんです。みじんも泳げないんです。何が嫌って、小学校の時にプールの底にある石を拾うという授業があって、普通はみんな潜って取りに行くんですが、私は足で器用に取るわけです。中学校では、短距離を泳ぎたいのにじゃんけんで負けて一番長い距離をビリで泳ぐことになりました。高校では体育の時は水泳の時はサボりました。自分の中では負い目ではあって、普通にできることが出来ないことでした。他にもたくさんありますが。
山田:よく言われるのは、私は単身で45歳です。私の世代で単身者というのは、少なくもありませんが、多くもありません。今でも、1人でフラフラしています。結婚していないのは、中心からはずれることです。ただ、男性で大学の教員で、ここに登壇していること自体が中心かもしれません。私と吉野さんがいた高崎高校は、中心に行く人を意図的に育てるシステムで、今では良くないと思っていますが(笑)、そういうところで教育を受けたというところもあります。中心的にいるということに無自覚ではだめだということは常に自分に言い聞かせています。35歳まで定職につかずフリーターだったことも、少し周縁かもしれません。自分の中で、中心と周縁というのは難しいですよね。先ほど、現代美術の役割として、マイノリティが中心に行くという話をしましたが、それって個人と個人の間でもあるのではないかと思います。先ほど今井さんから、アーティストと弁護士の共通の役割として、聞き落とされるような声を聞いて、真ん中で代弁するという話がありました。個人と個人、パートナー同士や友人同士、親と子の間でも自分の聞いてない声は確かにあって、本当は聞いたほうがいいんでしょうけど、聞けていない声がざらざらとこぼれ落ちてもいます。自分が中心にいがちな人間だからこそ、その戒めとしてそういう声を聞いていかなきゃなと日々思っています。
あかた:今の質問を、山田さんと吉野さんだけに聞いたのがすごく笑えて、「私にも喋らせろよ」と思いました。私は少数派に回るのがすごく好きです。最近それを最も感じたのが、ある大学主催の医学教育のゼミで多様性の話をした時でした。客が全員医者です。こっちは、よくわからない児童自立支援施設の人、フリーランスでバイト、明日倒れたら終了だぜっていう立場です。みんな明らかにかしこいので、「このインテリが」と思いながらしゃべる感じが最高でした。「俺、今日もマイノリティ」みたいな。私自身、わざわざマイノリティになるように仕向けてきたところがありました。正直、児童自立で働くのも、無理やり働き出したんです。大学の実習で入って、雇った方がいいと思いますよと言って雇わせました。なので、最初はギャラが図書券で、しばらく本が買い放題やった時代もありました。児童自立の何が面白いかって、自分が使っていない言葉を使っている人たちの中に行くから、そこで自分の新しい言葉を出さざるを得ないことです。マイノリティとして、新しい言葉を発明していく過程がすごく面白いから、完全に私利私欲のために働いています。だから戦略としてマイノリティになりますし、いつでもマイノリティになれます。その中でしか生まれない言葉もあるので、自分の安全を確保した上でやるといいと思います。
なぜ社会を変える必要があるのか
あかた:今日は、中心と周縁の話、その円やシステムを壊す、社会を変えるという話ばかりで、なぜそうするのかは前提過ぎてあまり語られていませんでした。最近、あの中心と周縁が普及しすぎて、みんな「しっ」みたいな「黙って」、「問題起こさないで」、「混乱させないで」という感じがすごく蔓延している気がしています。「空気を読め」という言葉がすごく象徴的だと思いますが、それではあの仕組みすら見えなくなっていきます。アーティストや弁護士が、今あるシステムをねじ曲げていく、周縁で黙らされた言葉を中心で出すことの意味というのは、あの仕組みの中で誰かがもがくことで、あの仕組みが初めて浮かび上がって、「あれ、もしかして私は周縁にやらされたんじゃないの」とわかるようになることです。「小さい人」というより「小さくされた人」ということが初めて分かるのです。その差別構造というのは、それを隠す構造でもあります。差別には、罵声を浴びたり、やんわり曖昧にされたりすることなど色々ありますが、差別された人が「私が悪い」と思ったり、「私が悪いから黙っておこう」という構造が出来ていくのが怖いです。マイノリティに都合の良い社会を私は作りたいのではなく、マイノリティに都合のいい社会は、もうみんなにとってもいい社会のはずなんですよ。今、あの構図をきっちり守って、システムを温存することにみんなが力を割いて、何かいいことがあるんですか?と思っていて。だから、マイノリティに都合の良い社会を作りたいんじゃなくて、みんなにとっていい都合の良い社会に変えていくのをみんなでやりませんかという役割を、アートも弁護士も市民運動も担おうとしているんだなと感じました。
参加者:勉強になるお話ありがとうございました。私は、中2の時に児童相談所にお世話になったことがあります。私にとって自立支援での生活は、色んな人がいて分かり合える友たちがいて、世話してくれるおじちゃんがいて、楽しい食卓を囲んで、こたつでみかんを囲むようなキラキラ輝いている思い出としてあります。スポーツや簡単な算数を中学生でしたとか、その思い出がそのものがお土産だったと思います。楽しくて気が付かなかったんですがその時はマイノリティで、結婚して中学校で教員をしていて円の真ん中に近づいたんですけれども、生きにくい感じでした。そして、離婚して外側に出た感じがします。真ん中にいたときも経済的には守られたところがありましたが、生きやすいわけではありませんでした。
今、あかたさんがおっしゃった「マイノリティが生きやすい社会は、みんなが生きやすい社会」という点について、もう少し詳しく聞きたいです。今の社会システムでも、マイノリティが仲間同士でコミュニティを作って、システムを利用して経済的に生きていけるのであれば生きやすくなるということもあるのではないか、もし大きい枠でみんながコミュニティを作らなくても、そのままで生きやすい社会なったらいいのかなとも思いました。その点についてもう少し聞いてみたいです。
あかた:なんでしょうね…異性愛、既婚、正社員の男性も、HIVに感染するかもしれないし、会社が潰れるかもしれないし、離婚するかもしれないし、運命の彼氏ができるかもしれないし、いつあそこから転落するかわかりません。「転落」とあえて言いますが。マジョリティが明日もマジョリティかどうかは本当はわからないのに、それを必死で忘れようとして生きている感じがするから。例えば、明日車椅子になったとしても、明日も今日と同じように外へ出かけられることにしておいたらいいのではないかと私は思っています。その上で、最初から完璧な法律もないし、1個変えてみて話し合い、またダメなところを変えていく。平等ってよく言いますが、ジェンダー平等の社会なんてまだどこも実現していません。日本から見たらノルウェーは進んでいますが、ノルウェーの人に聞いたらまだまだだと言います。そこに近づいている過程が平等なのかなと思います。今ではないことは確かです。
山田:最後にご登壇いただいた方から一言ずついただきたいと思います。まず私からですが、自己責任論ってありますよね。社会に周縁にいる人に対して、あなたの責任でしょう、あなたが悪いんでしょうと言う。でも、今日の話の肝は、結局は構造なので本人が悪いわけではなく、社会のシステムの問題だという考え方を努めてやっていくべきだということです。そういう社会であれば良いなという思いを込めて、今後もアートなど活動をしていきたいです。
間々田:最近、講演する機会が増えています。自分はマイノリティの側だけど、顔も名前も出してそれでも身の危険を感じることはなく、それだけでマジョリティになれていると自分でも思います。まだ群馬で交流会に来てくれる多くの人は、学校や職場や家庭でセクシュアリティのことを身近な人に話せていません。もっとそういう人たちが、カミングアウトしてもしなくても、危険や不利益に脅かされないようになってほしいと思うし、LGBTだけではない生きづらさがたくさんあります。あかたさんが言ったように、明日車椅子になっても、明日も変わらず外に出られるということですよね。いずれマイノリティという言葉がなくなるといいと思います。
吉野:法律は、必ず原則と例外があります。原則は大多数の人がそう思うということで、例外はそうでない場合も、妥当な結論になるよという仕組みです。大多数の人は、少数の人の側に絶対まわらないし、想像ができない。法律の世界は必ず想像するのが前提です。これが原則だけど、そうじゃなかったらどうしようということを考えて作る仕組みになっています。そういう事に気づかせてくれるのが、芸術や今日のような意見交換なんだなと思いました。
あかた:先ほどの選択的夫婦別姓全国的陳情アクションの方が言っていた「これは政治活動ではなく、ただの対話である」ということをずっと考えていて。私は、その対話こそが政治活動だと思います。政治というと、デモをしている人とか、選挙に出ている人だけではない。お互いの理想の世界は違うから、声が大きい方についていこうではなく、対話していかないといけない。だから、自分の声を出していこうということと、声を出していける世界作っていこうと思います。今回初めてアーティストと言ってしまって思ったのは、アートは使えるということでした。これからも一緒にやっていきたいと思っていて、社会運動の人はアートに関心をもったほうがいいし、逆もそうです。だから今ここで喋っている事自体が面白いと思っています。今ここで話そうよ、対話しようということを最後に言いたいです。
山田:それでは長い時間ありがとうございました。
(構成・投稿=小田久美子)