WS(2) フラッグガーランドランド


2016年5月24日(火)第二回ワークショップ

場所:南橘団地内N棟とL棟の間の公園

時間:14:00〜19:00

スタッフ:中島佑太(以下、なかじ)、狩野未来(群馬大学学生)、古賀渚(ボランティア)、今井朋+小田久美子(アーツ前橋学芸員)

参加者:合計22名

ワークショップの流れ

14:20〜 搬入、準備、呼び込み

15:00〜 ワークショップスタート

15:30〜 子ども達が徐々に集まる

  1. 紙に印刷されたひらがな文字フラッグに色塗りをして、柱と柱の間に取り付けられた紐に飾る(公園側)
  2. フェルト布に描いたり、形から発想して動物などオリジナルのフラッグを作る(棟前の机)

17:30  完成したフラッグを南橘団地自治会事務所前の入り口に飾る

18:30  WS終了

アーティストの言葉

N棟とL棟の間の公園でワークショップ《フラッグガーランドランド》を開催した。ワークショップ会場を彩るフラッグタイプのガーランドを団地の住民たちと一緒につくることで、単なる工作を楽しむだけの場ではなく、ワークショップの場作りを1から一緒にやってみたいと考えたからだ。会場の公園に着いたのは午後2時頃だった。とても暑い時間で、日陰もなく直射日光が当たる公園だったので、公園から5mほどのM棟前の通路にある日陰にテーブルを出すことにした。通路を塞がないよう、公園に来た人にも気がついてもらえるように配慮しながら、その目印になるようなガーランドを、ワークショップの参加者たちと作ることで、ワークショップへの愛着が湧くのではないかとイメージした。

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前週の金土に前橋駅前ままマルシェにてワークショップをしていた時に、(南橘地域の)子ども育成会のお母さんがご家族で来てくださった。火曜日は習い事などがあるらしく今日のワークショップには、参加はできないということだった。さらに火曜日は授業が終わるのが遅いようで、参加できる子どもは少ないのではないかとご指摘いただいた。案の定、15時のスタート時点では子どもの気配はなかったのだが、15時半くらいから低学年の子ども達が今井さんに誘われてやってきてくれた。日陰のテーブルで持ってきた宿題をやっていて、テーブルが狭かったので、公園側に生まれた日陰にシートなどを出しておいた。平日の放課後は宿題スペースや大人向けのお茶コーナーがあったら素敵だと思った。ワークショップに来てくれた子どもたちは、低学年が多かった。

ワークショップは、コピー用紙の塗り絵ガーランドを練習用兼小さな子が来た時用にとプリントしておいた。そちらを様子見で出しておくと、何人かの子どもがそれをシート代わりに敷いたパンチカーペットの上で塗り始めた。まあただの塗り絵なので、それほど盛り上がらずではあったのだが、分かりやすい作業なのでとりあえずやってみるという子が多い印象だった。

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ワークショップにおける表現の自由と「ある種のルール」

参加者が増えてきたころ、団地を通学路にしているという青柳の小学校1年生同士がケンカを始めた。風で飛んだ紙を踏んだのか、気がつかず踏んだのかは分からないが、踏んだことを謝ってほしいというような内容ではなく、「バカ、てめえ、この野郎」などという罵声の浴びせ合いだった。足元で他の子どもたちが絵を描いているので、カーペットの外でケンカするようにお願いをしたが、出て行ってはくれなかった。そのうちの一人は、外国人かハーフに見えたが分からない。その子はカーペットに登ってきたアリをクレヨンで潰そうとしていた。「アリはただ歩いているだけなのにかわいそう。」と言ってみたが、「アリは死んでもいい。」と言う。その勢いでカーペットに落書きをしてもいいかと聞かれた。別にもう既に描いてあったので、ダメではなかったのだが、カーペットに絵を描く時間になってしまうとガーランドづくりにならなそうだったので、できればガーランドを描いて欲しいと伝えてみたが、あまり聞き入れてもらえずにカーペットに絵を描き始めた。

民生委員のGさんがやってきて子どもたちの面倒を見てくださった。彼女はワークショップが自由な表現であることと考えてくれているのか、「カーペットにも絵を描いていいよー。」と促していたのが聞こえた。もちろん「描いてもいい」もしくは「ダメではない」のだけど、描くことを促すのは少し違うように感じた。ワークショップでは、お絵描きや工作をして作品作りに参加することが大事なのではないのだ。交渉や対話を繰り返して、自由な表現をする権利を獲得することをもっと大事にしたい。その意味では、カーペットに「落書き」をしてもいいのか、という質問への最初の大人の答えは「ノー」なのではないだろうか。なぜ落書きがしたいのか、それは本当にカーペットにしなければいけないことなのか、それを問うた上でカーペットに自由に表現をすることができるのではないかと思う。「普通に」考えれば、突然団地の平日午後に現れた無料のワークショップに学校帰りにたまたま出くわした小学生が、比較的大きなパンチカーペットに自由に絵を描いてもいい、そんな機会はなかなか一般的な住宅地では起こらないことだろう。ワークショップの本質的なテーマ性と、アートならではのものづくりの場を開く意味の間で葛藤があった。

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真似っこから始まる想像力

団地に住む友人親子が、小学校時代の共通の友人を連れて来てくれていた。彼女はカナダの大学院で幼児教育を学び、現在はトロントで子育て支援を仕事にしている。移民の親子向けにワークショップをしたりすることもあり、興味を持ってきてくれたようだった。コピー用紙の塗り絵ガーランド作りで終わりたくなかったので、彼らをテーブルに誘い、フェルトでガーランド作りを試してみることにした。せっかくなので、団地在住の友人に、ガーランドサイズに収まるものを家に取りに帰ってもらい、クッキー型やスプーン、洗濯バサミを貸してもらった。

子どもたちがフェルトガーランドに絵を描き始めた。三角の角を少しずらし、動物の耳に見立ててキツネや猫を描いていた。5歳児発信のアイデアで、それに続いて小学生女子たちも動物を作っていった。自由につくる、という場では最初の1つがその後の見本になることは珍しくない。それもある種のルールだけど、空気といった方がぴったりくるかもしれない。「なんでもつくっても良い」というよりも、「見本のようなものでもつくって良い」と言われる方が分かりやすいし、想像が膨らむのだろうか。

以前のワークショップに参加してくれたフィリピンハーフのJちゃんがフェルトガーランド作りにも参加してくれた。同級生の女の子を連れてきたいけれど、まもなくバスケットの練習があるとのことで帰って行った。次のワークショップはいつかと聞かれ、未定だと答える。すると「(学校が早く終わるから)水曜日か金曜日にやってほしい!」と言われた。Jちゃんは三角形のフェルト先端部分に黒い糸で刺繍を始めていた。何度も糸が針から外れ、その度に2人で協力して糸を通した。やたらと穴が小さかったので、僕が針の穴に糸を通し、仕上げに彼女が引っ張るという作戦だ。最初は爪で取っていたが、とげ抜きのような道具があったので、最後はそれを使った。前回会った時は少し乱暴な言葉使いだったのだけど、今回はそういう雰囲気はなかった。打ち解けてくれたように感じた。

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子どもたちを取り巻く大人の意識

群馬大学の学生スタッフの狩野さんと子ども達が、ワークショップ会場とは別の公園で遊んでいた頃、突然民生委員のGさんからワークショップをもう終わりにするようにと言われた。もう終了時刻なのかと思ったが、時計を見たらまだ6時10分だった。テーブルではいい雰囲気でフェルトのフラッグ作りが続いていた。今は終わりにしたくないと思ったし、なぜ終わりにしなければいけないのかがすぐには理解できなかったが、6時過ぎに子どもが帰らずに遊んでいるからだと理解し、彼らを帰すことになった。

子どもを取り巻く環境というのは、はたして何が正しいのだろう。新しい考え方に基づいて、「正しく」教育がなされたとしても、それが子どもたちの成長にとって正しく良い影響として、すぐに見えるわけではない。良い環境も悪い環境も含めて、様々な状況や環境を体験し、そこから学び取っていくものだと考えると、多様な考え方の人がいる中で育っていくことも大事なことだろう。普段過ごしている家庭や学校の近くで、普段出会わない大人たちと出会い、話し、ともに何かをつくるという時間を過ごし、普段できない体験をする。それこそが美術館が実施するべきアウトリーチ活動の醍醐味なのだと思うが、一緒にその時間を過ごしてその体験の質をつくる大人の振る舞い方は、どのようにコントロールするべきなのかには課題がいつも残る。

僕はエゴイスティックなアーティストの感覚を押し付けるのではなく、表現が自由であり、その自由さを獲得するための術や、そういった自分だけの表現をどのように見つけるのか、その見つけ方を一緒に見つけられるような場作りをしたいと考えている。なので比較的子どもたちには「自由に」過ごしてもらいたいと思っているが、自由であることと、好き勝手やることの境界線というのは曖昧であり、裏腹なものだと感じている。子どもたちはもともとは、自分自身の主体性の中で自由な想像を持って生きている。それは放っておけば無秩序になってしまうし、それは自由とは呼べない好き勝手で無法状態にも陥ってしまうだろう。そのため、何らかの方法で、子ども自身が親や大人などの周りにいる他者(自分以外の主体を持った人)からの介入や干渉を受ける必要が生じる。自分1人ではない状況の中で、他人の権利に配慮しながら、不自由さの中から自由をつくっていくべきなのだと思う。どんな大人でも、そういった状況を理解した上で対話ができるスタッフが必要不可決だ。

ワークショップに限らず、ライブな表現をする上で欠かせないのはノリだ。こちらは乗せ上手である必要があるし、参加者にも乗せられ上手な関係を求めていくことが重要だ。水を飲む気がない牛を、井戸に引っ張ったところで水を飲ませるのは難しいのと同じなのだ。その上で設定されたテーマに興味をもたせ、参加し表現することの必然性や動機を引き出す能力が求められる。ただそれは大それた高等技術なのではなく、子どもと大人の関係に上下を作らず目線を対等に合わせ、ダメという言葉を使わずにダメなことを伝える努力をし、できないことを突きつけるのではなく「できる」という可能性を提示することで、参加者の想像力を膨らませることでしかない。私たちはその場所のルールや社会のしきたり、周りの目を気にしながら、遠慮や自粛をすることで周りとの調和を図っているが、そういった目に見えない様々な圧力は勝手に感じていることなのではないか。さらには、そういった状況を「大人はきちんと知っていて守るべきだ」ということが「常識」だと考える雰囲気こそが、一番厄介な問題なのかもしれない。

ガーランドは、イベント会場の飾り付けとしてよく目にするものだ。ありきたりなモチーフではあるが、出来上がるとやはり可愛いし、不思議とその場が変容したように感じられる。団地という区切られた場所に入るとなぜか感じる「誰かに見られているんじゃないか」という感覚は、団地が見えない境界線の内側にあることを意識させる。その場が普段過ごしている時間・場所とは少し違ったものだということをまさにガーランドは示してくれる。今後、参加者にも場作りに参加してもらい、当事者意識を育みながらプロジェクトを進めていくならば、ガーランドがイベントの場所を示すだけのものではなく、人と人の間にある壁や、見えない押し付け、団地という区切られた空間に入ると目線を感じる状況を、視覚化するメディアになるかもしれない。

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(執筆=中島佑太、撮影=木暮伸也、編集・投稿=今井朋)

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