WS(5) 夏祭りワークショップ
2016年7月30日(土)第五回ワークショップ
場所:南橘団地中央広場
時間: 15:00~21:00
対象:南橘町内会の皆様
サポートスタッフ:金野睦美(清心幼稚園スタッフ)、狩野未来+星野怜菜(群馬大学学生)、小田久美子(アーツ前橋学芸員)
参加者:合計106名
ワークショップの流れ
8:30~9:00 ワークショップ準備
10:00~16:00 ワークショップ開催(15:00~ 夏祭り始まり)
16:00~17:00 片付け
17:00~ 夏祭り参加
アーティストの言葉
アウトリーチの狙いとアーティストのジレンマ
南橘町内会の夏祭りが行われるとのことで、連絡役をしていただいている民生委員の方にお願いをして、ワークショップを行うスペースを貸していただいた。目的はワークショップを通じた住民のみなさんとの交流とプロジェクトのPRであった。もともとこのプロジェクトのスタート時点で浮かんでいたキーフレーズに、「美術館に来ない人は誰か?」という問いがあり、美術館に来ない人の中には、今回のような美術館のアウトリーチ事業にも関心を示さない人が一定いると考えられる。お祭りのように多くの人が集まる場に出向くことは、美術館にも来ない、アウトリーチ活動にも参加しない人たちにも出会えるチャンスが広がる。
しかし、アーティストとして感じるジレンマは、そのような文化芸術に関心のない人たちとのワークショップでは、アーティストがイメージする「やりたいこと」が実現せず、「簡単に」「誰でも」できることに落とし込まなくてはならなくなることも多い。そのため今回のように長期的なスパンで構想を描くプロジェクトで、単発のワークショップを夏祭りで行うことは敬遠したくなる傾向があるように思う。僕は、特にそう考えてしまう傾向が強いアーティストなのかもしれない。イベント会場でワークショップを行う場合、1回の時間と定員が区切られない、常時入れ替えの出入り自由な屋台形式がほとんどとなる。また、関心がなくても参加してもらえるよう、多くのワークショップは無料で行われる。無料のワークショップは、今回のような多くの人に知ってもらいたい機会には適しているが、一方では中身に料金の価値があるかどうかを吟味されることがなく、面白かろうがつまんなかろうが、関心があろうがなかろうが入れ替わり立ち替わりやってくる状況になる。
移動に必要なもの
会期前にアーツ前橋で、展示装飾用の「移動に必要なもの」のイメージサンプルをつくるワークショップを行った。参加者は、レギュラーでワークショップを行なっている清心幼稚園卒園の小学生たちで、今回は彼らに展示の手伝いを依頼した形でいくつかつくってもらった。今回の夏祭りワークショップでは、展示装飾用にできあがった「海の家」を南橘団地に移動させ、それをきっかけに遊べないか、という設定にした。美術館に来ない人、という議題設定から発想し、人や物の移動に興味を持ったのがきっかけだった。海の家はそのイメージ通り、夏の間だけ開店し、食材などの物資が移動(運搬)され、遠方から人々が遊びに来る場所である。アーツ前橋で開催中の展示室から、南橘団地へと、展示物の一部を移動(持ち出し)し、ワークショップを行う、もしくは移動してワークショップをするためのものを、「移動に必要なもの」というイメージで展示室に展示しているというコンセプトだ。さらに南橘団地のワークショップでつくられたものを展示室に移動(持ち込み)し、展示室の内容がアップデートされていく。そうすることで、展示室の内容が成果物の陳列ではなく、オンゴーイングなプロジェクトの一部でしかない、ということを表現することも狙いとなる。
移動してきた海の家には、海の家の看板、子どもたちがつくったかき氷や焼きそばなどのイメージの他に、適当な工作のための材料や道具を用意した。それ以外のものが必要だと思えば、その場でつくっていけばいいというのがワークショップの醍醐味。炎天下の屋外に丸一日いた我々スタッフにとって、特に必要になったものが帽子だった。熱中症ギリギリの状態で、日陰に逃げ込みながら、色画用紙で帽子をつくった。最終的にいつもきてくれていたフィリピン系の女の子も真似して帽子をつくってくれた。
ワークショップが工房であり続けること
ワークショップで重要なのは、設計が緩やかであることだと、意識している。今回のワークショップの設計はそれにしてもゆるすぎるかもしれない。なぜならやることを決めておらず、「海の家を持ってけばいいんじゃない?」くらいのものだったからだ。サポートスタッフの群馬大学の学生たちは、そんな状況の中、集まってきては丸投げされたり、無茶振りを食らったりしていて、さぞ大変だろうと察してはいる。とはいえ状況そのものが設計にもなりうる。何色かの色画用紙と、基本的な工作のための道具(ペン、ハサミ、テープなど)を用意していたので、やれることといえばお絵かきやら工作をスタートにした何かだ。あとは「何をして遊ぶか?」ということくらいを参加者に決めてもらえば済む。つまり、我々アーティスト・美術館・スタッフサイドが決めることは、フレームだけで、その時間の遊び方は参加者に委ねられているわけだ。ワークショップ参加者に「何したらいいですか?」とよく聞かれるが、「何して遊んだらいいですか?」と聞いて来る子どもはあまりいません。遊びというのは、いつのまにか始まったり、自然と思いつくものだからなのだろう。
だから色画用紙に絵を描きたくなったら描けばいいし、切りたくなったら切ればいい、水中眼鏡にしたかったらなんとかして作ればいいし、なんとなく楽しそうだからそこにいるだけでもいい。僕は参加者に僕が満足する作品制作を求めていない。何か成果物が生まれないと大人は「分かりにくさ」を感じたり、「もっと分かりやすいことを」と言ってくるが、それは”大人の満足”なわけで、それが”参加者の満足”であるとは限らない。遊び方が決まっているおもちゃよりも、想像次第で何にでも変わる紙切れの方が子どもたちが長く遊ぶという傾向もあると感じている。
そういう理屈で言い訳をするわけではないが、僕はこの日のワークショップで、子どもたちが何をつくっていたのかをあまり覚えていない、暑さのせいかもしれないが。(ボンドで砂絵を描いていたのは、覚えている。団地の砂が美術館へと移動されるのもおもしろいと思った。)そもそも僕は他のワークショップでも、成果物の記録を撮り忘れたりするし、失礼な話かもしれないが、成果物にあまり関心を持てずにいる。スタッフが撮影した写真を見て振り返ってみると、海とは直接関係のないキャラクターや、ハートマークなど子どもたちが好きなモチーフの他、タコの絵や海賊旗などがあるのが分かる。海の家の設定や、我々スタッフとの会話によって発想されたモチーフなのだろう。遊び方やつくるものが指示されない自分次第の工房として、ワークショップが緩やかな設計のもと、開かれている。このワークショップが美術館として提供している体験は、アートがどんな権力にも負けず、自由であり続けられるものであり、アーティストが自由に自分自身の作品を制作をするような工房を地域に開き、参加者が指示されることなくアーティストを体験するように工房で過ごす緩やかな時間なのだろう。
(執筆=中島佑太、撮影=スタッフ、編集・投稿=中島佑太)