チラシポスティング01
日時:2016年5月19日[木] 16:00~19:00
場所:南橘団地
サポートスタッフ:小出さやか+茂木克浩(群馬大学学生)、今井朋+小田久美子(アーツ前橋)
ワークショップを団地内で開催するたびに、その周知のために団地内のすべてのお宅へポスティングによるチラシの配布をしている。プロジェクトを始めたばかりで、知人があまりいない分、このポスティングが唯一の広報活動となっている。今回は、その2回目。ポスティングのように、かたっぱしから課題をクリアしていくような作業は嫌いではない。
この日、第一回のワークショップに来てくれた子どもたちのうちで、最後まで残ってくれて記念撮影をした子たちにプリントアウトした写真を直接渡したいということになった。Sさん(第一回のWSに参加してくれたお母さん)にお尋ねしたところ、それぞれの子どもたちの家がどこかは分からないということで、下校時刻に通学路の橋で待ち伏せをしたらどうかとアドバイスをいただき、4時20分に橋で待つことにした。
片側一車線の橋の両側には歩道がある。歩道に複数人の大人で立っているとふさいでしまうので、渡りきったところで待つことにした。橋の歩道と川沿いの歩道の角に車止めがあった。他にベンチらしきものは見つからないので、そこに座ることにした。アーツ前橋学芸員の今井さんと小田さんはすかさずと言わんばかりに前橋市の名前が入ったネームカードを胸に下げていた。僕には何も自分が怪しい者ではないことを証明するようなものがない。むしろ作業着としてきている清心幼稚園のピンクのTシャツにピンクのスリッポンを履き、サングラスをかけていると、まさに怪しい者だと主張しているような気分になった。
南橘団地の活動はこの待ち伏せ以外のことでもそうなのだが、社会的には善いことをしていると思うのだけど、どこか悪いことをしているような気持ちになることがある。学校帰りの小学生に不用意に声をかけて通報された話を聞いたりすると、いつそれが自分の番かとビクビクしてしまうのはなぜなのか。
子どもたちに無事写真を渡し、団地内でポスティングをしていると、第一回のWSに参加してくれた小学校3年生でフィリピン系の姉弟と遭遇し、公園で遊ぶことになった。何して遊ぶ?と聞いてみると弟君からおうちごっこと提案されたがちょっと恥ずかしいのでパスをした。すると「捨てられた人形ごっこ」や「地獄の井戸ごっこ」を提案されたのでやってみることにした。
まず、捨てられた人形ごっこは読んで字のごとく、道端に捨てられた人形になりきって壁にもたれかかってじっとしている、というものだった。フィリピン系の顔立ちが異国情緒を醸し出し、なんとも言えぬ捨てられた人形の演出に一役買っていた。地獄の井戸ごっこという名前は正確ではないかもしれないが、正確な名前は忘れてしまった。滑り台付きの遊具を家に、チューブ状の滑り台を井戸にそれぞれ見立て、母(僕)、帰ってきた子供(弟)、老婆(姉)が登場人物だ。僕が家にいるとお皿をたくさん持ち帰ってきた子供が帰宅する。するとその皿を井戸に落としてしまう。さらにそれを拾おうとした母が井戸に落ち、井戸の中の地獄に落ちる。地獄には老婆がいて、落ちてきた人は殺される。というストーリーだった。彼らは興奮しており、何を言っているのか聞き取れない部分もあったが大筋はそんな感じだった。
その後南橘団地に住む小学校2年生の女の子が合流し、4人でだるまさんが転んだやどろけいをして遊んだ。どろけいは団地の中で子どもを追いかけなければならず、通報されることが頭をよぎったが、別に悪いことをしているわけではないと自分に言い聞かせて遊び続けた。気がつけば6時半になっており、2年生の女の子の母親が迎えに来た。見た目では気がつけなかったのだが、お母さんも東南アジア系(おそらくフィリピン系?)だった。さらに、公園から見える位置にあるベランダから、もう一人の子の親がその子を呼んでいることに気がついた。何と団地らしい風景なんだろう。
誰だかも分からない大人と遊んでいたことが問題になるかとヒヤヒヤしたけれども、団地で次回ワークショップをすることなどを伝え、ちょうど群馬大学の学生スタッフの小出さんがチラシを持って通りかかったので、チラシをお渡しすることができた。日本人ママが僕のプロフィールを見て何か気がついた様子だったが、特に話題にはならなかった。後日聞いたところによると、中学の一つ下の学年だったようだ。
結果2組の親子とコミュニケーションをとることができた。すぐに打ち解けて様々な話をするようなタイミングではなかったけれど、団地という居室が密集した空間だからこそ起こる状況だったように思えた。すぐ見える位置、すぐ探せる位置に人の生活がある。しかし、そのプライベートな範囲は当然区切られている。団地という境界線の中に、パブリックとプライベートの境界線がある。その中にどんな暮らしがあるのか、その暮らしからはどのような日本社会が見えるのだろうか。そしてそれはどうやったら見えるのだろうか。
そのリサーチ方法として、団地の子どもや住民と“おうちごっこ”をするのはどうかと思っている。というのは、おうちごっこで表現されるものは、自分自身のおうちで見ている生活の様子そのものだったり、憧れている生活スタイルだったりすると感じるからだ。もしくは、被災して避難所にいる子どもたちが地震ごっこをして遊ぶというけれど、それはその体験で感じた恐怖心やトラウマを、遊びとして表現し発散することで、自分の気持ちを整理していることなのだという。つまり、生活の中にある不自由さやストレスもそこには表現されるのかもしれない。
おうちごっこについては、もう少しリサーチをしたいと思っている。
(執筆=中島佑太、撮影=小田久美子、編集・投稿=中島佑太)