WS(7) モウソウジ


日時=2016年11月19[土] 13:00~15:00
会場=南橘公民館~南橘団地
対象=どなたでも
持ち物=なし
参加費=無料
企画=高木 蕗子(群馬大学大学院学生)監修=中島佑太
主催=アーツ前橋
サポートスタッフ=小田(アーツ前橋)、茂木(群馬大学大学院生)、狩野(群馬大学学部生)

参加者数=17名(スタッフ等関係者含む)

ワークショップの内容

南橘団地のプロジェクトを行う中で、中島佑太のワークショップを群馬大学教育学部の大学院生や学部生にサポートをしていただいている。プロジェクトメンバーの一人である大学院生の高木蕗子がなかじにアドヴァイスをもらいながら、子どもたち向けのワークショップを実践した。ワークショップでは、2つの班に分かれ、南橘公民館周辺や南橘団地の中で清掃をし、集まってきたゴミが元々はどこから来たのかを想像し紙に描く。元の持ち主がどんな人物だったか、何に使われたのかなど、現地の生活についてゴミを通して想いをはせるような時間となった。

企画者の言葉

まちを歩いていてなんでこんなところにこんなものが?と思ったことはないだろうか。このワークショップは、そんなまちに落ちているものに秘められた物語をみんなで妄想・想像してみようというものである。私たちが普段何気なく過ごす場所に落ちているものは一体どこからきたのか、誰が捨てたのか、そもそもどこからゴミなのか?南橘団地をお掃除しながら、妄想や想像の旅に出かけた。

私が初めて南橘団地を訪れたのは今年の夏。アーツ前橋での展覧会「表現の森」の中でのアーティスト中島佑太さんによるワークショッププロジェクト「LDKツーリスト」の存在を知り、団地を歩くうちに趣味であるゴミ観察をじっくりやってみたいと思いこのワークショップをすることになった。「LDKツーリスト」は、団地という場所の特性を見つめるなかで、ずらりと連なって見えるような住環境の中に存在する「境界線」や「他者の視線」そして美術館と団地、団地からまだ見ぬどこか…といった「移動」がテーマになっている。

この日、集合場所の南橘公民館に集まったのは子どもや大学生など合わせて8名。残念ながら南橘団地の住民の参加はなかった。次の日が団地全体でも清掃の日だったというのもあり、「掃除なら明日もするしなぁ…」というところだろうか??と想像したり。生憎の朝からの雨で、私が雲行きを心配しているうちに子どもたちにより「学校ごっこ」(子どもたちが先生)が自然に始まっており、その流れの中でモウソウジは「掃除の時間」として幕を開けた。

チームふきこ、チームなかじの二つのチームに分かれ、それぞれが手分けして軍手、ゴミ袋、トング、カメラなどを持っていざ団地へ出発。見つけたゴミを拾っていく中でこれはとっておき!というものを見つけたら一人一人に配った小さな袋に入れてとっておいて最後にみんなで妄想展覧会をする。何も落ちてなかったらどうしよう…という私の不安をよそに、開始5分もたたないうちに団地の入り口に折り紙のワッペン飾りがついた箱ティッシュ(ずぶぬれ)を発見。それを皮切りに、黒ヒゲ危機一髪(剣が数本刺さっていて黒ひげは不在)・お手玉・クワガタのフィギュアが茂みからまとめて出てきたときはこの謎のおもちゃスポットは一体なんだ?秘密基地?とざわざわ。また、参加者の中にサックスを吹く学生がおり、落ちていたただの木片と思われていたものがサックスのリードだと判明したり。みんな宝探しのように歩いているうちに熱が入ってきて、「ここにもあるよ~!」と男の子が先頭を走っていけば「こっちにトング持ってきて!!!」と後ろでそのお姉ちゃんが叫ぶ。みんな茂みをかき分けたり色んな所をのぞいてみたりと団地の中を駆けていた。

犬の足跡と猫の死体

今回とても印象的だったことが二つある。一つはある男の子がモウソウジをする中で、ふと立ち止まって「これ犬の足跡じゃない!?」と道路の白いシミを辿ったり、塀の側面に均等に空いているくぼみの空間がある所から赤くなっていて、それは向こう側にある建物の色と光の反射によってそうなっていることに気づいたりということだ。何が落ちているかな、と思いながらまちを歩くと、おのずと姿勢や視線がいつもと変わる。今まで目印にしていた施設、看板などからなにげないゴミがランドマークになる。それがいつもの住み慣れたまちの歩きなれている道でも視点が変わることによって、いつもは見えなかったものが見えてくる。そしてそれを共有することによって、隣にいる人でも見ているもの、捉え方、何をゴミとするかといった価値観が違うことに気づく。

もうひとつは、私とは別のチームだったが団地の中で「猫の死体」を見つけたことだ。団地というのは、建物とその前にある道の間にすこしスペースがある。それはオープンな庭のような、プライベートな庭でないような空間であり、私はいつもそこを意識して歩くたびに見えない境界線のようなものを感じる。モウソウジのチラシがある!とこどもがその空間に踏み入れていったところ、その猫は横たわっていた。その近くには餌だったかもしれないものなどが転がっていた。猫はそこで亡くなったのか、そこに置かれたのか、私たちでは計り知れない。ただ、「ゴミ拾い」という一見奉仕活動的で地域になじみやすいだろうと考えていた行為が突然「みんなが見ないようにしているものを外からやってきて掘り返していく」行為のように思えてしまった。これだって妄想かもしれないが、時折感じる住民からの視線を思い出す。

 妄想ってなんだろう?

こんな感じでゴミ探しがヒートアップしたり衝撃的なものと出会ったりと色々あったが、課題として思ったことは、やる以前は簡単に言っていたが「妄想する」とは難しいということだ。改めて自分自身で設定した「妄想」とは何かということについて考えさせられた。団地という生活空間の中で、たまたま衝撃的な落とし物をいくつか見つけたといってもほとんどは身近にあるリアルなゴミが落ちている。そうなるとどうしても「推測」になりがちだ。答えを探求してしまう。しかも雨が降った後である。拾うのに躊躇する場合もあれば、興味をもって妄想を広げていくことはなかなかに難しい。そしてこれはモウソウジの設定自体というか、ファシリテーションの課題でもある。ただ「ゴミを見つけて拾って妄想してください。」といっても、使う道具も設定もみんなの知っている「ゴミ拾い」になってしまう。何のために「妄想」するのか、という向こう側があれば広がっていくのかもしれない。

 団地でモウソウジをするということ

モウソウジをするにあたりチラシ配りやリサーチに行った際、団地を掃除している女性にあった。団地の中の掃除は棟ごとで行われ、みんなで月一で掃除をする日が決められている。しかし話を聞くと高齢化で出て来られなくなったり、月一で全員でやらなくても別の日に個別にやっておくというシステムもあるらしく、必ず定期的にみんなが顔を合わせ何かを一緒にするという環境でもないようだ。また、団地のエリアごとでもゴミの数などの違いは目に見えて感じる。現在団地の中で掃除がどのように機能しているのだろうか。今回は団地の住民とは一緒に掃除をすることはできなかったが、今後こうしたワークショップを通して住民の人々とも交流が生まれればよいなと思った。

日常の中で当たり前となっている掃除という行為、目をそらされてきたゴミという存在に「ゴミを妄想するワークショップ」というフィルターを通して目を向けるには、まだまだ改良や実験を重ねる余地があると実感した一日だったが、なんでこれがここに?と感じた時の気持ちがその場所を離れ遠くへ飛んでいく感覚、見過ごしていたものに目を向ける感覚を感じることができればと思う。それをここ南橘団地でやるとはどういうことか、自分に問いかける一日になった。

     

(執筆=高木蕗子、撮影=木暮伸也、編集・投稿=今井朋)

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