文化庁×群馬大学共同研究プロジェクト/2017年度の記録映像
文化庁×群馬大学共同研究プロジェクトで、文化芸術による社会包摂の評価手法・ガイドライン構築の事例研究として石坂亥士・山賀ざくろ×清水の会 えいめいの取り組みが取り上げられることになりました。
そのキックオフシンポジウムが3月9日に開催されました。
キックオフシンポジウムのチラシ
シンポジウム終了後の関係者の声
石坂亥士のブログより
元の記事はこちら:http://dragontone.hatenablog.com/entry/2018/03/11/132602
その後は、元気21の中にある505学習室で行われたシンポジウムへ参加して来た。
これは、定期的に行っている、特別養護老人ホーム・えいめいでのワークショップを第三者が客観的にみて評価というか分析していくとうもの。群馬大学と文化庁の共同企画とのこと。
その活動は、アーツ前橋の表現の森・特設サイトに結構な量の記録があるので、ご興味ある方は、お時間ある時に是非ご覧いただきたい。
石坂亥士・山賀ざくろ×社会福祉法人 清水の会えいめい
普段はあまり意識しないでやっていることを、言語化していくという慣れない作業も、今後に生かせることもあるかもしれないかなあと・・・・。
そして、お年寄りは、よほどのことが無い限り、先に亡くなっていく。
実際に、自分たちがこの施設に関わってから、何人も旅立って逝った・・・
えいめいの施設長さんから、ちょうどチラシに載っている、おばあちゃんが、数日前に旅立ったという話を聞いて、普段一緒に現場に行っている「チームえいめい」のメンバー一同、複雑な気持ちとなったのも事実だった。
そのおばあちゃんは、日常的には、ほとんど動く事ができない状態で、かろうじて両手が少し動く程度だった。
そんなおばあちゃんは、近くで太鼓を叩くと、少し両手とうか手の平を動かして、リズムをとっている様に太鼓のリズムに呼応していた。
いろいろな現場に行くたびに感じるの事だが、動けるのに恥ずかしくてか、慣れないからなのか、身体を思う様に動かさない子どもたちや大人もいる中、このおばあちゃんは、わずかに動く両手を精一杯動かしていた。
それは、本当に生命の根源から発信された動きであり、とても強烈で濃密な時間を共有できた記憶として、強烈に自分記憶に刻まれた瞬間でもあった。
そんな瞬間を、チームえいめいの映像担当・岡安君が映像におさめてくれていて、そんな映像もふまえたシンポジウムでありました。
アーツ前橋や、文化庁、群馬大学、などの公的機関がバックアップしつつ、こういった活動が行われているのは、ありがたいことである。
そんな反面、参加者の中の保育関係の方曰く、「最近は、アーティストが園にやって来るのが流行になっていて、どうなんだろう???と疑問をもっている。」という意見もあった。
こういった問題は、いろいろな状況もあるだろうが、受け入れ側もある程度、見る目や感性を養う必要があるのではないか?という気がする。
山賀ざくろより
えいめいの特別養護老人ホームでは 、一昨年11月の最初のお試しワークショップから今年の1月までに、3ヶ月に2回くらいのペースでこれまで8回のワークショップをやってきました。この一年とちょっとを振り返ってみると、やった回数とすれば少ないかもしれませんが、思っていた以上に濃密な時間を施設のお年寄りの方たちと過ごしてきたように感じています。
そういうタイミングで、今回のように第三者の方たちによってチームえいめいの活動が言語化されることは意義あることでしょう。こうしてワークショップを重ねてきて、今となっては何か特別なことをやってきたとは思ってませんが、シンポジウムでは、アナリストの方の発言を聞いたり、岡安さんの映像をみてみたり、参加者の方とディスカッションをしたりしながら、これまでやっていたことを客観的に振り返るいい機会になりました。
特養のお年寄りの方たちは、一般の人を対象にやるときのように受講者然として気構えて我々を迎えているわけではないので、施設の日常の中(おやつの後の時間)にすう〜っと入っていって、亥士さんの音が聞こえてきたり、わたしが挨拶がてらちょっと踊ったりしながら自然に始まります。こういう導入の仕方は、幼稚園児などの小さな子どもとやるワークショップと同じように、やる側もそれほど気を使わずにすんなりみなさんの中に入っていけるのですが、子どものようにストレートなわかりやすい反応が必ずしもあるわけではないので、お年寄りひとりひとりへのアプローチは無意識の内に子ども以上にface to faceで向き合おうとしているのかもしれません。
そうしてお年寄りにより近づこうとして至近距離でお年寄りと対峙することで、お年寄りの微細な反応がわかったり、またそれに呼応して次の動きを投げかけたりしている。わたしの場合はそういうやり取りでワークショップの時間が成立しているということになるでしょうか。映像ではわたしはただおちゃらけて踊っているようにも見えますが、ビームの送り先に照準を合わせてそれなりにがっつりまじめにおちゃらけているようです。
今回のシンポジウムの最後にやったグループに分かれての意見交換では、文化庁が行っている芸術家の学校への派遣事業のような事業が老人介護施設に対しても行われるようになる可能性についての意見なども出ましたが、それを実施するためのコーディネーターが職業として成り立つ必要もあると思いますし、なかなか難しいことかもしれませんが、アート周辺の国の予算の使われ方に我々アーチストがもっとコミットしていかなくてはとも思う次第です。
岡安賢一(映像制作)より
「社会福祉法人 清水の会 えいめい」で行われているアーツ前橋による「表現の森」プロジェクトでは、映像担当である僕もチームの一員として加えていただいている。
もともと「表現の森」がアーツ前橋での展示を前提に始まったプロジェクトであり、神楽太鼓奏者の石坂亥士さんとダンサーの山賀ざくろさんが活動を行うにあたり「演奏やダンスは展示できないから、映像で残す」というわかりやすい理由で始まった映像記録。けれど、展示終了後も僕は外されることなくチームの一員として存在し、この度の「文化庁×群馬大学共同研究プロジェクト」のキックオフシンポジウムでも、下記より見ていただける特別養護老人ホームでの撮影映像を上映していただいた。
えいめいで行われるパフォーマンスについて、事前の打ち合わせはない。これは「即興」を得意とする亥士さんやざくろさんゆえのものでもあり、「じゃあ開始10分くらいで2人でコラボレーションするからね」とか「今日は○○さんに重点的に働きかけるから、そこを撮ってよ」などという前話もない。ゆえに、僕はその場で起きたことを反射的に撮り、持ち帰って編集するだけだ。実に単純である。
下記ダイジェスト映像は、「表現の森」展示の際の対象だったデイサービスから特養へ場所・対象者を変えた後、2017年に行われた6回の訪問をギュッとまとめたものだ。1回のパフォーマンスがだいたい40分くらいで、僕は途中で撮影を止めずずっとビデオを回しているので、240分程度の映像を6分ないし10分に縮めたものとなる。基本、映像の中での1人の方の出番を1回とし、その人が過去6回の中で一番「らしく映った」ものを並べた。
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定点カメラを置くだけでは伝わりにくいので、意図してカメラを動かしたりズームしたりする。亥士さんの場合は、僕は観察医(そんな職種はないけど)のごとく観察する。特養ならではの特徴として、手を叩いたり反応がある方はそこまでの撮影、身体の不自由などで一見リアクションがない方は手や目に動きがないかズームしたりする。そしてそのどれにも反応がない方についてはカメラをパンダウンし、足を撮ったりする。そこで足に反応があればそういった映像になるし、ないならないでも(=全く反応がなくても)映像の価値が成立するのが特養ならではのことだと思う。
ざくろさんについては、10分バージョンで一部使っているが、ゴープロという小型カメラを頭につけていただき撮影したことがあった。そこで撮影された映像は、僕のような「撮影・編集によるある種の演出」を排した、淡々とした対象者とのやりとりであり、演奏とは違い身体によるコミュニケーションという、通用する方が限られるアウェイな場所において、ユーモラスに、懸命に、淡々とやりとりする姿が印象的だった。また、亥士さんとざくろさんによる音とダンスのコラボレーションは、神楽太鼓という楽器の効果ゆえか太々神楽を思わせるものでもあり、それはデイサービスのみではなく特養の利用者の方にも「思い出を喚起させる効果」があるように思える。
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今回、長々と撮影について書いたのは「キックオフシンポジウムでの映像の受けが良かったことへのちょっとした危惧」からだった。その映像を作っている本人が言うのもなんだが、この映像は「現実に起きたこと」のみを素材としつつも、あくまで僕主観で撮られたものであり、240分を切り貼りしたものである。そもそも、その240分であっても、映像は「現実に現場で起きていること」のごく一部を残せるに過ぎない。実際の現場は実に淡々としていて、ある種「退屈」であるとも思う。
キックオフシンポジウムでは、研究される皆さんにより、えいめいでの取り組みを「利用者の方たちが、文化的生活のなかで、よりよい最後を迎える」というような言葉で説明される下りがあった。それはハッと気付かされる言葉で、そのように研究者の方たちによって「言語化すること」は非常に重要と思いつつ(自分たちがやっていることが何なのかわかりにくい現場とも思うので)、その言葉を「目的」と掲げてしまうと、見えなくなるものがある気もしている(そんなつもりでの言語化でもないとは思うけど)。
映像や言語からこぼれ落ちるものは何なのか。チームえいめいでの活動は今後も続くので、そんなことを考えながら映像を撮り続けたいと思っています。
木村祐子(コーディネータ)より
3月9日 シンポジウムを終えて(3/14)
チームえいめいに群馬大学と文化庁、調査の人々が加わった。
施設長とも話をする。大きなことになったなぁ、と。
シンポジウムまでに、調査の方々の進行で、どのような視点から評価をするか、丁寧に検討していった。アーツ前橋やチームえいめいの活動が、高齢者や家族、施設職員、アート業界、社会にどのように影響を及ぼすか、多角的な視点から捉え評価していく。足りない部分はインタビューで細かく補う。
施設にいると、監査、減算、指導とかマイナスのイメージが多いけれど、今回は改めて、どう活かしていくかを考えることなんだ、と感じる。
とは言え、記憶に強く残っていることは、なんとなくできてないなー、と思うことである。現在行っている活動に、えいめいの施設職員とどのように関わっていくか、また、世間一般の高齢者業界にアート活動をどのように展開していくか。話は飛躍するかもしれないが、アートや文化的生活に対する社会的保障が非常に低いことなど、改めて痛感だった。訪問看護や訪問リハビリのように確立された訪問アート?のような制度ができれば、人の価値観は変わっていくのではないだろうか。
あー、このあたりが課題だー、と。
シンポジウム中は、緊張をしていて、ちょっと覚えていない。ただ、みんないろんな思いで、一生懸命やっているなということは、再確認した。
文化庁の方が終わりの言葉として、たくさんの嬉しい言葉とともに、「こういった活動は、良い活動に見える為、危険もはらんでいる。」いう言葉もくださった。正しいと思って突き進んでいることでも、時が経てば見直される。気がつかないこともある。それは、普段、健康のために飲んでいた薬が、数年経って実は害を及ぼすことがわかることさえあるように。
いろんな方が携わってくれ、何かが変わるチャンスかどうか、芯を見極めながらすすんでいこう。頑張ろう、と。
違和感のあること、ともに人々と社会に変化をー!
小田久美子(アーツ前橋)より
シンポジウムの際、施設長さんからとある利用者の方が先日お亡くなりになったと聞いて、何だか自分でも予想外にはらはらと涙が出てきてしまい。これまでもプロジェクトで印象に残った方が、お亡くなりになったことは何回かあったのだが。それで、少々混乱気味で自分が何を話したのかもよく覚えていないが、その方のリズムを刻む姿が私の体に残ったままで、それが身体の中から涙を押し上げたような感覚である。
私も現場で写真を撮っていることが多いので、その方へもよくカメラを向けていた。身体が拘縮していて胸の前に組んだ手で、亥士さんの太鼓のリズムに反応して手を動かしていたり、木村さんがひょいと手の間に差し込んだ鈴が鳴ったり、ずるりと膝に落ちたり。うーん、ちょっとこの心の動きはまだ言葉に出来ず。
今回は、調査チームの方が共感的にヒアリングをしてくださって、言葉にならないことに輪郭を与えてくださったり、私たちがぼんやりと感じていた違和感を課題という形で改めて提示してくださったりしたことで、また次に進む原動力を得る機会となった。急遽決まった調査で、エビデンスをと言われてもなぁ…特にコミュニケーション能力の向上とか機能改善とか予防を目的とした事業でもないし…と、当初は正直に言うと少々頭を抱えていたのだが、やはり仕事は関わる人によって質や経験が左右される。そういう意味で、今回はとても人に恵まれ、複数の目で見ていただける贅沢な状況でもあり、結果的に良い会になった。映像のもつ力についても(このページに岡安さんが書いてくださっている通り)痛感した。
後半、こうした福祉や医療の現場にアーティストが入ることの懸念についても言及があったが、これはコーディネートしている立場の人間が常に意識していることだと思う。福祉の現場だろうが学校であろうが、アートやアーティストが施設や学校側にとって「持ち込まれる/やってくる」ような状況において、そこにいる人たちにどれだけの選択の余地が残されているかどうか、アーティストにとってもクリエイションに集中できる現場であるかどうか、意地悪な言い方だが私は「見張っている」と言っても良い(でも時にヘマもします…)。「協働」と謳うのであれば、双方がタッグを組んで話し合い、目標を共有して同じ方向へ進んでいくのが本来の意味や理想の状況なのだろうが、このえいめいのプロジェクトの場合は、あちらこちらを向いたベクトルが近い領域で複数走っていて、それが交差したあちこちに「協働」が瞬間的に発生しているようなイメージで、それが興味深いと思う。だから、今回のえいめいのプロジェクトについても「回を追うごとに施設や利用者に受け入れられているような感覚がある、それは利用者も感情が動いているからではないか」という話もあったが、私個人としては「単に私たちが施設に慣れただけなのではないか?」という自分に対する疑念が消えたわけではなかった。ただ、施設長さんが「これまでは介護度の重い利用者さんが多い中でレクリエーションは難しいと感じていたが、この活動を見てそれでも何かできることがあるのではないかという施設スタッフの声もあった」との話も同席した最後のセッションであり、やはり継続することでゆるやかに変化していく部分もあるのかもしれないと新たな期待感を抱いた。
最後に、アートが嫌ならやらなくてもいいし、気分が乗らない日だってある。アートもアーティストも人によっては、見た目は安心そうでも奥深いところで毒になったりするくらいの力があるものもある。
それがまた別の人と出会った時の化学反応が予測できなくておもしろい。利用者の方が胸の前に組んだ手で打つかすかなリズムをチームえいめいで見つけた時、一同が心動かされたように。
2017年度の映像記録
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映像制作:岡安賢一
(編集・投稿=アーツ前橋 小田久美子)