アリスの広場 若者の執筆(3)Kさん
小さい頃から人見知りで、人の輪の中に入れず、緘黙(かんもく)? で、母親は他の親に「〇〇ちゃんは、耳聞こえているの?」と聞かれるほどだったようですが、家に帰ればわりと喋っていたので、母親は首をかしげていたと聞いたことがあります。
私の目に映る人はテレビ画面を通して観ているようで、遠く感じることが多かったです。保育園で他の子ども達が遊んでいても”テレビ画面”を観ているようにぼーっとしていたり、一人で遊んでいることが多かったように思います。”テレビ画面”越しの人と、どう関わったらいいのか分かりませんでした。この感覚は今でも少しあります。そんな感じだったので、保育園の先生も呆れていたと思います。
小学校は4年生くらいまではなんとかなっていたような気がします。そんな気がしていただけかもしれませんが。。5年生辺りから周りに馴染めなくなってきて、疎まれました。自分では何故だか分からないんです。周りに合わせようと思っても駄目でした。
ある日のことです。なんの授業か思い出せないのですが、有精卵に一人一個マジックペンで自分の名前を書いて、孵卵器に入れて孵化させるという授業がありました。私の卵は孵卵器の奥の方に入れていたのですが、翌日見ると孵卵器の前の床に落ちて割れていました。落ちていたのは私の名前が書いてある卵だけで、他の人の卵はなんともありませんでした。とてもショックだったのを覚えています。
その後色々あり、どんどん調子を崩し、1週間ほど学校に行けなくなりました。死のうとしました。出来ませんでした。
中学校は最初の1週間程度しか教室に行けませんでした。小さい頃から少しずつ悪化していた家庭環境がどんどん悪くなり、学校(別室登校)にいても家にいてもつらかったです。目の前は常に闇で怯えていました。その時の唯一の救いは会ったことのない同年代の人と文通をすることでした。文通相手は数人いて、不登校の話は書かなかったけれど、なんとか外の世界と関わりが持てました。それがなかったら耐えられなかったかもしれません。
高校は単位制の高校を受けしました。制服がなく、時間割も自分で作成し、朝のホームルームを受けた後は各自授業ごとに教室を移動します。多分大学のような感じでした。周りの人は私と似たように不登校の経験があったり、色々な人がいて通えました。
高校卒業後、専門学校に入学しましたが、またしても周りに馴染めませんでした。周りに合わせようとしても、どんどん浮いていきました。特に悪口にはついていけず、高校時代は色々な人が居るなぁで済んでいたことでも悪口や無視の対象でした。諦めて勉強に専念しようと思っても、それも許されない、どうしたらいいのか分からない。毎日泣きながら学校に行き、学校のトイレでも泣き、しんどくて、しんどくて、母親に病院に行きたいことを話すと「心が弱いだけだ」と言われ、許されませんでした。
学校の自分の教室のある階に向かっていたつもりが、屋上に向かう階段をのろのろのぼっていて後ろから誰かに声をかけられるまで自分が何をしていたのか分からなかった時もありました。専門学校をなんとか卒業した後に力尽き、引きこもりました。
お恥ずかしながら、数年引きこもりました。ひきこもりから脱したきっかけはよく覚えていませんが、このままでは駄目だと思って散歩から始めた気がします。少しずつ体力もついてきたところで、その先どうしたらいいのか分からなくて、途方に暮れました。泣きながら高校時代の友人に相談しました。引きこもっている間は、ほぼ誰とも連絡が取れない状態だったので、震えながら連絡したのを覚えています。友人はアリスの広場を教えてくれました。
アリスの広場でボランティアさんと知り合い、ボランティアさんのお知り合いに仕事体験などでお世話になったりしました。ボランティアさんのおかげでハローワークの相談員さんと関わりを持てるきっかけがあり、相談員さんにすすめられて病院に通ったり、色々な支援を受けることが出来るようになりました。
アリスの広場に通っているうちに滝沢さんと知り合い、アーツ前橋に休館日に展示を見に行ったり、アウトドアをしたりしました。引きこもっていた時には想像できない経験をさせていただきました。美術に関してはちんぷんかんぷんで、「なんとなく好き」とか「すごい」「色んな人がいるなぁ」程度です。撮影可能な展示を撮って後で見返すのが好きみたいです。
いつの間にかアリスの広場とハレルワの拠点の話が出てきました。その時の私は自分のことや家族、家のことでいっぱいいっぱいだったのですが、拠点の改装作業に参加して作業をしている間は気が紛れました。ペンキ塗りが好きみたいです。落ち込むことも多かったのですが、まちのほけんしつ(拠点)の完成を目にするまでは頑張ろうと思いました。
私は今、まちのほけんしつの改装作業に行ったり、ゆったりアーツに行ったり、ハローワークの相談員さんや病院に通ったり、支援を受けながらなんとか過ごしています。今はなんとかなっているような気がしますが、引きこもっている時間が長かったし、相談員さんに初めてお会いしてから実際通い始めるまでに1年以上かかりました。私と似たような経験や、もっと大変な経験をされていても引きこもらずに自力で乗り越えている人もいるだろうし、引きこもった原因は自分にもあるだろうなと思っています。
引きこもっている間、引きこもりから脱した後など、周りは色々言ってくることもあるかもしれません。当事者のことを思って言う人もいるし、好き勝手なことを言ってくる人もいるかもしれません。その言葉を受け取ったあとにどうするかは自分次第です。相手の人生じゃなくて、自分の人生なんです。自分の人生…私は引きこもりから脱して、関わった皆さんのおかげでやっと気付き始めたところです。でも、時には手を引いてもらいながらでも、誰かが用意した波に乗るという受動的な時があってもいいと思います。(今の私はそんな感じです)
相談員さんに言われた言葉で「生きる方法は一つじゃない」「踏み出せなくても、その場で足踏みでもいいから後ろに下がらないようにしよう」という言葉が頭に残っています。引きこもっている間は止まっているか、後ろに下がっている状態で、とてもここには書けません。
私はこの先、周りの人に支えられながら生きていくのだと思います。そしていつかは少しでも支えられるようになれたら、、。そして、昔の自分に大丈夫だよって言ってあげられるようになれたらと思います。
今回この文章を書くという話をいただいた時、昔を思い出すことになるので迷いました。でも、今は書けて良かったと思っています。これからもよろしくお願いします。
(執筆:K、写真:滝沢達史)