表現の森の探検は、まだまだ続くよ~(文=山賀ざくろ)
※デイサービスセンターえいめいでの活動について、ダンサーの山賀ざくろさんによるこれまでの施設での活動に関するレビューです。
表現の森の探検は、まだまだ続くよ~
文=山賀ざくろ[やまが・ざくろ/ダンサー]
高齢社会、そして父母や祖父母のこと
私事で恐縮だが、わたしの父と祖父母はもうだいぶ前に他界しているのだけれど、おかげさまで母はまだ元気だ。えいめいの施設を利用されているお年寄りの方たちとは、同年代か10くらい若い歳なのだけれど、まだ自分で車の運転をしてひとりで出かけて行くし、足腰は弱ってきてはいるものの頭はしっかりしていて、かなりのおしゃべりだ。そしてあごを引き上目遣いでわたしの顔を老眼鏡越しにのぞいては小言を言うので、口喧嘩になることがよくある。
わたしは子どものころから自分の母親にほめられた記憶がない。だからえいめいでのワークショップでお年寄りの方に「おにいさんからだが柔らかいね」とか「踊りがじょうずだね」とかほめられるとなんだかこっぱずかしい。できれば母に腰痛緩和の体操や基礎体力維持のための簡単な筋トレなどの指導をしてあげたい気持ちもあるのだけれど、他人様とのコミュニケーションのようにおだやかに事が進まないので、やらずじまいのままだ。
こうして、わたしは実の母親にはぜったいにできない終止笑顔でえいめいのお年寄りの方たちとワークショップをしたのでした。(続く…)
それにしてもいつの間にか市内のあちこちに、大なり小なりの老人介護施設ができていて驚く。それに合わせるかのように、今年になって自宅近辺に民間の葬儀場がふたつできた。自宅の並びにはもう誰も住んでいない空き家が数件ある。自分の住む地域のここそこの風景がこういう形で変わりつつあることに心がざわつく。こうして社会全体に高齢化の波が押し寄せてきていることを否応なしに実感させられる。とは言え、デイサービスを利用するお年寄りや老人ホームに住むお年寄りが、そうそう外や街中を車椅子に乗ってでも出歩くことはないわけで、そういう介護が必要な高齢者を誰もが身近な存在として日常的に意識することはないという現実もあるはずだ。三世代で同居する人の割合はさらに少なくなり、介護も看取りも家族の手から離れて、対価を払ってサービスを受けることが当たり前のこととなってきている今、子どもや若い世代と高齢者との日常的なつながりがますます希薄になってきていることで、老いや死を頭では理解しているつもりでも、五感のようなリアルな身体感覚としてとらえられなくなってきている人が多いのではないだろうか。
わたしが父や祖父母を見送ったときとは大きな違いだ(父は48年前、祖父は46年前、祖母は29年前に他界)。父はガンを患っていたので入院先の病院で亡くなったのだけれど、祖父も祖母も自宅で療養をしていてそのまま自宅で亡くなった。葬儀は3人とも自宅で行なった。当時はそれが当たり前だった。
祖父が自宅で倒れた時わたしは小学5年生で、ほぼ意識不明のまま自宅8畳の和室に敷いた布団で寝たきりになった。脳卒中か何かだったようだ。今ならすぐに救急車で病院に搬送され、CTスキャンなどの検査を受けて治療するのだろうが、あの時は掛かり付けの近所の内科医が往診に来る程度のことしかしなかったように記憶している。今となっては、往診に来るだけでいったいどんな治療をしてくれていたのかよくわからないのだけれど。当時は家族全員でふた間続きの和室で寝ていたので、祖父の闘病期間中もわたしはそれまでと同じように祖父が病に伏している同じ和室で寝起きしていた。祖父が倒れてからどれくらいの日数が経過していたか憶えてないのだけれど、ある日の夜明け前あたりの時間だったろうか、ざわざわと人の話す声がするので目が覚めた。薄目を開けるといつもの医師が来ていて、母や祖母と話をしている。どうやら祖父が亡くなったらしい。それがわかるとわたしはなんだか怖くなり、目をつぶって祖父のほうに背を向けてそのまま眠っているふりをしていた。その後、自分がどんなタイミングで起きたかとかは憶えていないのだけれど。
その2年前に父の死を知らされたのもやはり朝の早い時間だった。母に起こされると、和室の襖がはずされ、襖の前にあったタンスがなくなっていた。だだっ広くなった部屋の中では、見知らぬ男性が祖父と何やら打ち合わせのようなことをしていたような記憶がある。もう葬儀の準備が始まっていたのだ。わたしと1学年下の弟は、母に洗面所に連れて行かれて、父が亡くなったことを告げられた。わたしと弟は母に抱きかかえられたまま3人で泣いた。まさか父が死ぬとは思っていなかったので、さすがにショックは大きかった。それに比べて祖父の死は、悲しい気持ちはあったけれど、父の死よりも冷静に受け止めていたようだ。それはやはり祖父が病に伏してから亡くなるまで、祖父の肉体なり存在がずっと近しいところにあったからなのかもしれない。それから17年後、祖母も自宅で息を引き取った。祖母が病の床にあったときは、すでにわたしは成人していたので、祖母の手足をもんだり、水分を含ませたガーゼを祖母の口元に持っていき水を少し飲ませるなど、看病もどきなことを少しはやった。
そして今、老齢に達していても一応まだまだ元気な母の姿を見ていると(多少弱音を吐くこともあるけれど)、えいめいの施設をご利用の高齢者の方々と心情的にシンクロしてくるのは、もうだいぶ前に他界している祖父や祖母のことだったりするのがちょっと不思議な気もする。そんなわけでわたしは孫みたいな感覚でえいめいのお年寄りの方たちと接しているのかもしれない。それは今は亡き祖父や祖母の姿、そのふたりの不在の痕跡を追っているというところもあるかもなと思ったりしている。
えいめいでのワークショップ
さて、今回の表現の森におけるデイサービスえいめいでのワークショップは、いわゆる慰問やレクリエーションではないし、そもそもワークショップの様子をアーツ前橋のギャラリーで展示するというのがいまいちピンとこなかった。ワークショップの様子を撮影した映像を記録として見せる場合と作品として見せる場合では、だいぶ意味合いが違ってくるし。ワークショップが始まる前は個人的にはそんなことなどをぼんやりと考えつつ、ひとまず映像としてお年寄りの方たちのいきいきとした表情や身体の動きが撮れるようにするための自分のやるべきことを思い描いていた。
お年寄りの方たちが、亥士さんの奏でる民族楽器の音にどう反応するのか。また、お年寄りが自ら演奏することで、どのような時空間が生まれ、どのようなコミュニケーションがなされるのか。わたしは目の前のお年寄りと向かい合いつつ、全体の様子も見渡したり、あちらこちらから聞こえてくる音やお年寄りの反応に意識を向けたりしていた。亥士さんが毎回趣向を変えて持参する世界のいろいろな民族楽器に、みなさんそれぞれに興味を示し、様々な反応をしてくださった。亥士さんの演奏に耳を澄まし、ご自身の昔の記憶が蘇った方がいらしたり、ワークショップを重ねるごとに、楽器を打ち鳴らすことに一気に集中していく方がいらしたりした。ワークショップ最終日の全員でのセッションではカオスな時間になった瞬間もあった。また、ひとりの女性のお年寄りが突然立ち上がって踊り出したときはびっくりした。それまでのワークショップでは、お年寄りが立ち上がって動いたりすることに、えいめいの介護スタッフの方たちは積極的な反応を示してくださらなかったので、わたしからお年寄りに立ち上がってダンスを踊るようなことを促すことはしなかった。そんなこともあり、その方が自ら立ち上がって笑顔で楽しそうに踊ってくれたことがわたしはとてもうれしかった。
そういうアクティビティが行なわれる中で、わたしの役割はお年寄りをいかにその気にさせていい気分で演奏してもらえるかを手探りでやっていた。結局のところ、ダンスを踊るというより、指揮者が指揮をするような感じの動きをしながら、お年寄りの方たちのところを回っていた。ただ30名ほどの多人数なので、その都度ひとりひとりに対峙できる時間はせいぜい数十秒から2分程度で、広く浅く関わるような接し方しかできなかったのはちょっと残念だった。わたしが激しく踊ったり、ふざけたりおどけてみたりしたのも、お年寄りの心を踊らせて楽器をより楽しくいきいきと演奏してもらうための方策だったというのはある。ほんとうはひとりの人とじっくりと穏やかにダンスの動きで関わるような時間も持てたらよかったのだけれど、お年寄りの方の楽器の演奏を中心とした〝絵〟になる映像を撮ってもらうことを主眼においていたので、そのことはひとまず置いておいて自分が今やるべきことに専念していた。
アーツ前橋での展示
かくして映像担当の岡安さんによるワークショップの様子を撮影・編集した映像が、アーツ前橋の展示ギャラリーの白壁に大写しされるのを実際に目にして、あの現場の雰囲気が伝わるいい感じの映像に仕上がっていて、自分のやるべき役割はある程度は果たせたようで一安心した。
表現の森の展示が始まった3日後に開催された公式ライブ以降、主に週末に何度か亥士さんとわたしはえいめいの展示スペースにいてみたのだけれど、思っていたほどの来館者がなくて拍子抜けしてしまった。ぽつりぽつりとえいめいの展示ギャラリーに入ってきて、少し楽器を触って、少し映像を見て、こちらから話しかけたりしなければ、それで出て行ってしまう人がほとんどだった。特にお目当ての展示があるでもなく美術館に来た人はまあそんなものなのかもしれないけれど、えいめいのお年寄りの方たちが演奏する映像が流れる中、複数の来館者といっしょにセッションをやって盛り上がったりするのをイメージしていたので、静かなギャラリーに映像のひかえめな音声だけが聞こえてくるのはちょっとさみしい気がした。それでも親子で来館した小さな子どもと楽器の演奏やダンスで楽しいセッションができたときもあったし、成人男性とわたしとでジャンベと神楽太鼓のセッションが自然にはじまって15分くらいずっとやったりもした。監視員の方たちも展示の日程が進むにつれて、来館者にさりげなく楽器の演奏を促したりしてくださったようで、楽器の演奏が楽しみでリピーターになる人もいたらしい。また、亥士さんやわたしがいない日に多くの来館者でにぎわったこともあったようだ。
こうして美術館の展示スペースで自由に大きな音を出したりできることはめったにないので、夏休み期間中でもあったし、展示を見る見ないに関わらず、中学生や高校生がアーツ前橋に遊びにでもなんでもいいから来ないかなという思いがあった。来れば来たでたまたま見た展示に興味を持ってくれるかもしれないし。そんなわけで、面識のある市内の高校の吹奏楽部の顧問の先生に部員の生徒たちに遊びに来てくれるようお願いしたのだけれど、部活で忙しいのか興味がないのか残念ながら来てはもらえなかったようだ。また別の高校の演劇部の顧問の先生にもお声かけしたのだけれど、稽古で手一杯とのことだった。アリスの広場の展示スペースには卓球台が置いてあったので、中学や高校の卓球部員である卓球少年少女たちの迫力のあるラリーが見たかったのだけれど、それも叶わなかった。ちょうどリオオリンピックで日本の卓球選手が大活躍をしていたときだったから、なおさらそんな期待もしていたのだけれど。
表現の森の展覧会は展示を見るだけでなく、展示スペースで何がしかの行為をしている人がいて、そのことで見えてくるものがあるとも思っていたので、学生以外にも来てね!コールはしてみたのだけれど、声かけした人が皆来てくれたわけではなかった。そんなこんなもあって、表現の森の展示最終日には、当初の予定にはなかったクロージングライブを亥士さんと相談してやらせてもらうことにした。亥士さんの神楽太鼓から始まり、亥士さんとエレキギターの塩島光弘さんとのセッション、そしてバリ伝統音楽の國崎理嘉さんの笛の演奏に引き継がれ、みなで演奏したり踊ったりで最後のセッションを楽しんだ。その様子を1階の展示スペースから見聴きしていたアーツ前橋の吉田学芸員は、以下のコメントを展覧会後のメールマガジンに寄せている。
「7月より同時開催した「コレクション+」展、「表現の森」展が閉幕しました。最終日・最後の1時間では、「表現の森」展ギャラリー内は出品作家と来館者、監視員、サポーターなどこの展覧会に関わった多くの参加者によるライブセッションという大団円で幕を閉じました。これは筆者の個人的な主観ではありますが、地下から鳴り響く石坂亥士の太鼓、山賀ざくろの踊り、様々な楽器を手にセッションし、踊る来館者を眺めながら見る「コレクション+」展もまた格別でした。小林達也の実像を想起せず描く抽象画や、チェーンソーで荒々しく彫られた髙山陽介のレリーフを見ていると、それらプリミティヴな表現が一層際立ち、会期中に見ていた作品とはちがった新しい表情を見ることができました。」
表現の森の新たな探検の場へ
えいめいのワークショップのことに話を戻すと、去る11月22日にえいめいの文化祭の企画のひとつとして、亥士さんとわたしは、デイサービス及び特別養護老人ホームのそれぞれのお年寄りの方たちとワークショップをやらせていただいた。その流れで来年2月にはもう一度特別養護老人ホームの方たちとワークショップをやらせていただくことになっている。そしてどうやら来年度もこの取り組みは継続されることになるようだ。特別養護のお年寄りの方たちは、えいめいのこの場所が毎日の生活の場だ。自宅へ帰ることもなく、病気で入院しない限りはここで一生を終えることになる。その事実は重い。今後も表現の森のチームえいめいのみなさんと意見交換をしつつ、えいめいの職員の方々とも連携して、意味ある現場にしなければならない。とは言えまじめにやるだけではだめだろう。やはり多分に遊び心もないとね。時に幼稚園で子どもと遊ぶような感覚も必要だよね。
さあこれから表現の森の新たな探検が始まる。何をか言わんや。とにかくやってみるしかない。わたしたちはその森に分け入って何を見つけるだろう。そして何が起こるだろう。天国のおじいちゃん、おばあちゃん、お空の上から見ていてね。天国のおとうちゃん、おかあちゃんが口うるさいのはどうしましょう。
(投稿=アーツ前橋 小田久美子)