社会福祉法人が運営する通所介護施設が伝えられること(文=木村祐子)
※デイサービスセンターえいめいでの活動をコーディネータとして施設とアーティストを繋ぐ役割を担ってくださった木村祐子さんによるこれまでの施設での活動に関するレビューです。
社会福祉法人が運営する通所介護施設が伝えられること
文=木村祐子[きむら・ゆうこ/社会福祉法人 清水の会、本プロジェクトコーディネータ]
現在私は、地域包括支援センターという高齢者の総合相談の窓口で勤務をしている。相談内容は、介護保険や病気、認知症、虐待、お金のことなど多岐にわたり、一人一人に合わせて困りごとを聴き、方針を検討する。たくさんの高齢者や高齢者を取り巻く環境の面白さを味わっているのだが、このような高齢者が増える日本において、なぜ、こうも高齢者に関するアートプロジェクトやワークショップが少ないのか不思議に思っている。このような状況の中で、アーツ前橋のプロジェクトは、私にとって非常にありがたかった。彼らの味を引き出し、世に伝えるきっかけになるだろう、日本一の取り組みになるだろうと、ワクワクしていた。ただ、今回のチャンスを逃せば、今後なかなかない機会だとも思っていた。それほど、高齢者の表現活動は取り上げられない。
ただ実際は初対面のアーティストの性格や志がどのような方か、高齢者にどのように対応をするか、心配はあった。また、今回は打楽器の即興のワークショップだったので、実際にプロジェクトがどのように進むのか、当日にならないとわからないといった状況で進められていたということも心配要素の一つにあっただろう。
かといって、仕事として普段関わっている私の高齢者に対する接し方や価値観を伝えることで、アーティストが活動しにくくなるのではないか、異なる視点から物事を考える可能性を潰してしまうのではないかと思い、あえて私から深く追求しなかった。もちろん、アートという言葉さえ身近ではない施設側も何だかわからない状況であっただろう。そのような状態だったため、アーティストと高齢者だけでなく、アーティスト寄りの学芸員、福祉業界寄りの私、双方の傍観者になれるカメラマン(岡安氏)とのやり取りは必要不可欠であった。メールや電話でのやり取りなどアーティストとだけの会話では難しい内容も学芸員と岡安氏との話で噛み砕けた内容も多かった。
そして、今になって高齢者とその施設に慣れないアーティストに、もう少し丁寧に活動を考え、対応していければ良かったと感じている。特に、即興を好むアーティストと、即興に慣れていない高齢者や施設職員の感じるものは異なっており、ここの隙間をどのように捉え、携わっていくかは私の中で課題として残っている。
しかしプロジェクト中、施設で神楽坂太鼓の奏者とダンサーは音や体で表現し、多くのことを伝えてくれていた。音のあり方、体の動かし方、高齢者の音や表現を捉え、丁寧に対話をし、人々を魅了していった。耳の遠い女性が、音や振動に興味を持つ。それは私とは会話が成立しにくい女性が、音や体でアーティストと対話をしている姿であった。「え?聞こえているの?」と、本当に聞こえたかどうかはわからないが、笑顔で楽しんでいたことは間違いない。また、理由はわからないが、普段から比較的強面の女性が回を重ねるごとに、少しずつ表情が柔らかくなったり、異様なまでに楽器に夢中になったりしていることもあった。自ら楽器を手に取ることは少ないが、他人が奏でる音に反応している高齢者も、明らさまに嫌な態度を取る方もいた。
表現者たちは、私や施設職員も気がつかない点に気がついていることもあっただろう。ただ、人々は幸せな時を過ごせたのではないだろうか。目に見えない暖かい空間が存在していた。一般的に施設や病院では、オムツ交換や食事の介助、入浴の介助などの必要最低限の業務以外は敬遠されることがある。転倒・転落、骨折、インシデント、アクシデント、事故報告書など、これらの内容は、医療・福祉の業界では大きなウェイトを占める。ただし、これらのリスクを回避するという名目で、必要最低限の業務しかしない、表現活動や喜怒哀楽を重視するような活動はなおざりとなる。そのため、人にとって大切な感情・命の尊さが失われていく場合もある。
私は、病院で看護師の勤務を経て現在の職業に至るが、感情に乏しく、鈍くなっていることも多いと思う。そうでなければやっていけない現場でもあるが、人々の表現や感情に共感し、楽しみ、悲しむということがいかに大切か忘れてはいけないと思う。そして、これらに真正面から立ち向かえるのが、アートやアーティストだと思っている。彼らにとって重要なものは明らかに後者であり、人にとって本当に必要なものが何かを教えてくれる。
ここで、もう一点触れておきたいことがある。今回のプロジェクトはアーティストだけではなく、施設に恵まれたからこそ展開できたということにある。私とは異なる部署であり、プロジェクトの現場であるデイサービスセンターえいめいの相談員(田島氏)に、話を出した時にあっさりと「やってみて、ダメだったら考えればいいじゃん。」といった彼の言葉に救われていた。(本当か?他の職員から何か言われるかもしれないじゃん、と内心は思った時もあるが)余計な不安は考えずに済んだ。また、個人情報や肖像権という大きな壁がある中で、プロジェクトに関わる25軒程度の家族に、一軒一軒確認して同意の確認をしていってくれた。さらに、当法人の施設長がプロジェクトの映像を終始見続け、アーツ前橋の展覧会に「俺、2回しか行けてないんだよ。ごめんね、木村さん行ってる?」と私にアーツ前橋にあまり行けないことを詫びた。もともと、真面目で優しい施設長であったが、ここまで素直に話しをする施設長を改めて尊敬する出来事になった。
高齢者が、自分のことをどのように受け止めているか、その人でなければわからない。それまでの生活でできていたことが、できなくなることを恥ずかしいと思い、老いるということを“恥”と捉える人もいる。しかし、歩くこと、ご飯を食べること、言葉をかわすこと、一つ一つの動きが、それまで生きてきた証となって表現されている。もちろん、頑固さや我の強さも表に出やすいが、それほど、長年生きてきた人々には命の重さがある。高齢者の生活に寄り添うことは、単純に食事・入浴・排泄介助に重きをおくだけではない。アーティストやアートで伝えることができるもの、高齢者の表現活動に寄り添うことは、その人を支え、私自身の支えになる。だからこそ、これからの高齢者に関する楽しい出来事をつくり上げていきたいと感じている。
(投稿=今井朋)